■J_Coffeeの徒然草(13巻)■
棋士・米長邦雄の挑戦 (後編) |
相場に失敗し追証が発生しそうになると、米長さんは、家を失う覚悟を決めます。
そして、「株を忘れて将棋に打ち込もう」と思ったそうです。
将棋の腕さえあれば、家は失っても買えます。
よくしたもので、欲が消えると相場は反転します。
損失が減り、家を処分しなくても、手仕舞いすることができたのです。
この出来事の後、米長さんの将棋は強くなったような気がします。
将棋界では、次第に20歳前半の若手が台頭します。
特に序盤戦に関しては、若手の研究会がベテランより情報を握っていました。
米長さんの凄いところは、若手の研究会に教えを乞い、仲間に入れてもらったことです。 これは、勝負に勝ちたいという執念がないと、心理的になかなかできません。 |
1993年、米長さんは、A級のリーグ戦を8勝1敗で優勝します。
気力充実、7回目の天下取りを目指します。
なんと年齢は50歳。
将棋の適齢期はとっくに過ぎています。
鉄壁のように立ちはだかる相手は、過去、名人戦で5回敗れた宿命のライバル
・・・中原誠・・・
米長さんは、3連勝し、名人位に王手をかけます。
そして、尾道市のリゾートホテル。
先手の米長さんは、矢倉囲(やぐらがこい)の新戦法「森下システム」で戦います。
若手の間で流行している戦法です。
若手研究会のおかげで、序盤戦は、僅かにリード。
まったく、緩むことなく華麗な手を指し、終盤戦へ。
◆◆中原名人に完勝します。◆◆
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最年長記録の新名人・米長邦雄の誕生です。
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グリーンスパン議長と ブラックマンデー(前編) |
アラン・グリーンスパンは、1926年、ニューヨークのユダヤ人の家庭で生まれました。父親は、株式のアナリストでしたが、グリーンスパンが3歳の時に離婚します。
グリーンスパンは、音楽が得意で、プロのバンドでテナーサックスを演奏していました。 しかし、数学と経済学の才能に目覚めて、ニューヨーク大学に入学し、トップの成績で卒業します。
コンサルタント会社を設立し、鉄鋼関係の需要見通しを作成します。
その予測はよく当たり、顧客を驚かせたそうです。
1974年、彼は、フォード大統領の経済諮問委員会の委員長に抜擢されます。
フォードは、彼の助言を頼りにして、「グリーンスパンは何処にいる?」が口癖でした。
1987年8月、グリーンスパンは、ボルカーの後を継いで、 FRBの議長(日本でいうと日銀総裁)に就任します。 |
ボルカーは、レーガン時代に圧力に屈せず高金利政策を断行して、インフレ退治で名をあげました。
彼にボルカーの代わりが勤まるかどうか?
ウォール街は、グリーンスパンの手腕を疑問視していました。
この頃、アメリカ株は上昇を続けていました。
さて、就任から間もない、1987年10月19日(月)のことです。
この日、グリーンスパンは、ダラスで講演の予定がありました。
ニューヨーク市場の寄り付きは、かなり安く始まります。
しばらくすると市場は、落ち着きを取り戻したかのようにみえました。
講演を中止すると、市場関係者が不安を招くかもしれません。
グリーンスパンは、飛行機に乗り込みます。
ダラスに到着後、株価(ダウ)を聞くと、508ドル安。なんとたった一日で22.6%の値下がりです(ブラックマンデー)。
有名な1929年10月29日(悲劇の火曜日)の値下がりは、11.7%に過ぎません。
ブラックマンデーは、この記録を塗り替えたのです。
たった一日で、アメリカの株式の富の2割以上が消失したのです。
値下がりで、金融機関が決済出来なくなるかもしれません。債務不履行は、連鎖反応を引き起こします。
◆◆早く、何とかしないといけない。◆◆
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グリーンスパンは、必死で対策を練り上げます。◆◆
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この続きは、明日発表します。◆◆
グリーンスパン議長と ブラックマンデー(中編) |
グリーンスパンは、FRB高官と電話で連絡をとります。株の暴落により、資金ショートが起こることが最大の心配です。
グリーンスパンは、20日(火)の朝、市場が開く直前、声明を発表します。
FRBは、アメリカの中央銀行としての責務を遂行するため、流動性を供給し、 経済・金融システムを支える用意があることを本日、再確認した。 |
電光石火の声明は、ウォール街関係者に強い安心感を与えます。
ニューヨーク連銀のコリガン総裁(FRB副議長)も大手銀行や大手証券会社に電話をかけて、破綻するところが出ないよう行政指導します。
大手証券会社や優良企業の間で、なんとしても暴落を防ぎたいという機運が盛り上がります。
レーガン大統領の主席補佐官ベーカーは、「助けてくれ」といって、グリーンスパンを呼び戻します。
グリーンスパンの講演は中止、ニューヨークに戻るために、軍用機が用意されました。
さて、市場が始まります。
寄り付きは、わずかのプラスでした。
しかし、ほっとするのもつかの間です。
午前11時30分、IBMなど、数十の銘柄に買い手がつかず、売り気配が切り下がって行きます。
午前12時30分、全面安・・・・
この時、証券取引委員会では「大統領権限で、ニューヨーク市場は、取引を直ちに停止すべきだ」という意見が、支配的でした。
ニューヨークに駆けつけたグリンスパーンは、これに反対します。香港市場が停止したときに、再開まで一週間かかった例を研究していたのです。
ベーカーは、今日の終わりまで様子を見ることにします。
終日、暴落がつづくなら、明日は取引を停止するしかありません。
明るいニュースが入ります。
何社かの優良企業が、この日、自社株買いをするとの発表をします。
午後1時、奇跡が起こります。
指数先物が、突然過去最大の上昇を起こします。
大手証券会社、数社が、6000万ドルの資金で指数先物を買ったのです。
商いが細っている時なので、価格に対するインパクトは強烈でした。
これを契機に、現物も買われだして、株価は一気に反騰に転じます。
◆◆終ってみると、ダウの終値は、102ドル高でした。◆◆
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アメリカが、いや世界が救われたのです。◆◆
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この続きは、10月21日発表します。(2日間仕事で休みます)◆◆
グリーンスパン議長と ブラックマンデー(後編) |
さて、ブラックマンデーから2日後の10月21日、新たな危機が発生します。
コンチネンタル・イリノイ銀行の子会社ファーストオプションズが、暴落で経営が行き詰まり、オプションの決済が出来なくなります。 アメリカには、預金者保護の観点から銀行とオプション子会社の間には、ファイヤーウォール(防火壁)があり、資金援助ができません。
コンチネンタル・イリノイ銀行は、シカゴ連銀に対してこの規定の免除を求めてきたのです。
FRBの銀行規制部門の責任者は、原則を曲げるべきでないと主張します。
しかし、ファーストオプションズの破綻は、オプション取引を行っている、他の企業に連鎖して株が再び暴落する可能性があります。
コンチネンタル・イリノイ銀行に子会社を救済させよう。 グリンスパーンは、即決します。 |
ブラックマンデーから5週間後、ウォールストリート紙にグリーンスパンの記事が載ります。
「試験に合格。FRB新議長、暴落への対応で賞賛を浴びる」
ウォール街は、グリーンスパンを信頼し始めたのです。
特に、20日の朝に出された議長声明は、賞賛されます。
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アメリカでは、FRBから公定歩合で大量の資金を借りた銀行は経営が悪化しているとみなされます。
そこで、公定歩合よりもフェデラル・ファンド金利(FF金利)のほうが重要だといわれています。
FF金利とは、市中銀行同士が貸し借りする翌日ものの金利です。
このFF金利の誘導目標を決定しているのが、連邦公開委員会(FOMC)です。
FOMCは、7人のFRB理事と5人の主要な連邦銀行の総裁の合計12人から構成されます。
しかし、FF金利の決定は、グリーンスパン議長に一任されることが多いと言われています。
絶妙のタイミングを金利幅を選ぶ、グリーンスパンのFF金利変更の手腕は、素晴らしいものがあります。
◆◆そして、「グリーンスパン神話」が自然と醸成されてきたのです。◆◆
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日銀にもこうした人材が欲しいですね。◆◆
ギャンの言葉から(前編) |
私の家から職場までは、電車で片道1時間ほどかかります。 私は、通勤時間を有効活用して、株関係の本を読んでホームページの材料にしています。
以前にも、ご紹介しましたが、W・D・ギャンは、多くの相場理論を本に残した伝説の相場師です。
今日は、ギャン関係の本を読むことにしました。
ある文を発見し、はっとしました。
それは、最近の自分の悩みに対する明確な答えでした。
その文は、上昇相場に関するものだったのですが、これを下降相場に書き換えると次のようになります。
・・・・・・・・・・・・
一般的に、良いニュースが出たときに買い、悪いニュースが出たとき売れば儲かる。
しかし、大荒れのどんどん下がる相場で、トレンドが強い下降傾向のとき、悪いニュースで皆が目一杯の建て玉をするまで、暴落しつづけるだろう。
そのとき、悪いニュースは、もはや相場を下げる助けにはなるまい。
悪いニュースで相場が下降しなくなる最初の時は、何かがおかしいのであり、 売りを手仕舞うべきである。 明確な指示を得るため、常にチャートに従うべきである。 |
・・・・・・・・・・・・
さて、不景気が進行しているにもかかわらず、今日も日経平均は296.15円も上がり、10,861.56 円となりました。
以上のギャンの文(「商品で儲ける法」第一章)は、最近の市場の状況によく当てはまっている気がします。
ファンダメンタルでは、とても買えないのに、株価がこれを無視して不思議と上がってしまう。 こんな場合、チャートつまりテクニカルのほうを信じたほうがいい、とギャンは言っているようです。
うーん、なるほど!
明日の押し目は買いかな?
◆◆明日は、出張で休みます。◆◆
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明後日は、戦争についてのギャンの言葉を紹介しましょう。◆◆
ギャンの言葉から(後編) |
1936年、ギャンは「株式トレンドを探る」という本を発表しています。その中で、戦争と株価との関係について、次のように述べています。
・・・・・・・・・・・・
過去の戦争は、株や商品価格に常に大きな影響を及ぼしてきた。
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それゆえ、こうした同じ状況が繰り返される場合、将来何が起こるかを見極めるために、戦争開始や戦争終了時の株や商品の値動きを研究することは重要である。
・・・・・・・・・・・・
この文が書かれた時期を考えると、ギャンは第一次世界大戦における株価の動きを、かなり研究したのだと思います。ただし、資料がなくて検証はしていません。
また、自国が戦場になるかどうかで、相場に与える影響は異なると思います。
この予測は、直接、戦争で被害を受けない時の話のようです。
以前に、相場師・鈴木久五郎でご紹介した日露戦争の終結前後の株価は、ギャンの記述と見事なほど一致しています。(この例は、ギャンも研究したかもしれません。)
また、朝鮮戦争と株価についてもご紹介しましたが、ギャンの予測は驚くほど当たっています。
強いて、つけ足すなら終戦後のバブル相場の後に必ず大暴落が来ることです。
日露戦争後のバブルは、1907年の大暴落で終わり、
朝鮮戦争後のバブルはスターリンショックで終っています。
◆◆もちろん、今回のアフガニスタンとの戦争は、◆◆
◆◆このような劇的な経過は辿らないと思いますが・・・◆◆
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ビンラディンが捕獲されたら、反対に暴騰ですよね。◆◆
流浪の漢民族、客家(前編) |
さて、次の中国人の共通点は、なんでしょう?
太平天国の乱の指導者洪秀全。
辛亥革命を起こした孫文と、彼を助けた財閥令嬢宋姉妹。
21世紀の超大国、中国の発展の礎を築いたケ小平。
シンガポールを建国したリ・クアンユー。
台湾の李登輝・元総統。
フィリピンのアキノ元大統領。
答え・・・彼らは、すべて客家(ハッカ)です。
客家は、福建省、広東省、香港、海南島など華南地区を中心に中国大陸に3500〜4000万人もいて、客家語を話します。 彼らは、東南アジアの経済を牛耳る華僑の中心勢力でもあり、海外に500〜1000万人いるといわれています。
合計5000万人は、一大勢力ですが、総人口13億人もいる中国では、少数派です。
客家は、もともと華北に住んでいた漢民族です。北方の騎馬民族の侵入、革命や戦乱に遭遇して、中原を追われ、難民として南方に大移動を開始します。
ところが、福建省には先住民と漢人が同化したミンナン語を話す民族が、 広東省には広東語を話す民族が主流でした。 客家は、遅れてきた、「よそ者」として、先住民から差別されます。 |
客家の「客」とは、他国からの流れ者(よそ者)というニュアンスがあるのです。
就職差別、結婚差別、給料の差別・・・
差別に対抗するため、客家は一致団結します。
客家は、親戚が数百人規模で集まり、円形の一つの建物に住みました。
外敵から守るのに適したその建物は、「円楼」と呼ばれています。
客家は企業を興し、客家の従業員ばかりを雇っています。
職場を守るには、他に方法がなかったのです。3Kをも厭わず、勤勉です。
客家は、教育熱心です。
人口比率は、少ないのに、有名な科挙の合格者・進士の10%を占めているそうです。
◆◆ケ小平はフランスで、李登輝は京都帝大農学部で教育を受けました。◆◆
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政治家を輩出できたのは、教育の成果も大きいと思います。◆◆
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この続きは、明日発表します。◆◆
流浪の漢民族、客家(中編) |
何千年もの間、差別に苦しんだ流浪の民・客家が、海外に新天地を切り開き、華僑として成功したのは当然の成り行きです。
香港とマカオの総人口700万人うち、客家は、250万人を占めています。台湾人の1割以上は、客家。 そして、インドネシアの華僑の大部分は、客家です。華僑は、東南アジアの経済の実権を握っています。
華僑は、その言葉から、客家バン、広東バン、福建バン(台湾系を含む)、潮州バン、海南バンの5大勢力に分かれています。 客家バンは、その最大のグループです。
シンガポールに渡り、虎標万金油(メンソレータムに似ている)で成功のきっかけを掴んだ胡文虎は、故郷の香港にタイガーバーム公園を寄付しています。
華僑は、故国中国のことを忘れていません。 しかし、共産主義という問題のあるシステムでは、 故国への投資を実施したくても出来なかったのです。 |
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ケ小平は、四川省生まれの客家です。
彼は、フランス留学中、共産党に入党して、周恩来と知り合います。
1929年、ケ小平は広西省に派遣され客家のネットワークを活用して、紅路第七軍を創ることに成功します。 客家は、紅路第七軍以外にも朱徳や葉剣英など、多くの軍人を輩出しています。
共産党が内戦で勝利を収めると、ケ小平は、劉少奇のもとで実務派として頭角を現します。
さて、ケ小平は、三度失脚して、そのたびに復活したことで有名です。
1976年、ケ小平の庇護者、周恩来が死去します。
この三度目の失脚は、ケ小平の最大の危機でした。
江 青 を初めとする四人組が、ケ小平を捕まえようと動き出します。
ケ小平は、広州軍区に逃げ込み、葉剣英将軍の懐に飛び込みます。
この二人は、客家の固い絆で結ばれていました。
そして、毛沢東の死後、将軍の後押しで、奇跡の返り咲きを果たします。
1978年、ケ小平は、国家主席に就任します。
彼は、昔から描いていた計画を実行に移します。
社会主義と矛盾しているとしか思えない、改革開放政策です。中国に経済特区を設けて、海外の資本や技術を受け入れようとしたのです。欧米や日本と比べ、絶望的に立ち遅れた経済を発展させるには、他に方法はなかったのです。
◆◆1989年6月、北京である事件が起こり、◆◆
◆◆この政策は危機的な状態に陥ります。◆◆
◆◆
この続きは、明日発表します。◆◆
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