■昭和金融恐慌に学ぶ■

---目次---
  • 鈴木商店の大番頭・金子直吉
  • 第一次世界大戦後反動恐慌と震災手形
  • 片岡蔵相の失言と三月恐慌
  • 台湾銀行破綻と四月恐慌
  • 高橋是清と恐慌の終焉

  • (2001/12/11)
    鈴木商店の大番頭・金子直吉

    神戸製鋼、帝人、日商岩井などのルーツを辿ると、鈴木商店という総合商社に行きつきます。
    この会社を短期間で、つくり上げたのが、大番頭の金子直吉です。

    彼は、1866年、高知県の没落した豪商の家で生まれました。
    貧しくて、学校教育を受けられなかったそうです。

    20歳の時、直吉は神戸に出て、鈴木商店で丁稚奉公を始めます。

    先代の厳しさに耐え切れず、直吉は泣きながら故郷に逃げ帰ります。
    わざわざ、高知まで出向き、直吉を励まして連れ帰ったのが、先代夫人の鈴木よねです。

    直吉の鈴木商店に対する忠誠心は、この時に芽生えたのかもしれません。

    やがて、先代が亡くなります。まだ子供は幼く、よねでは、経営はできません。
    よねは、直吉を番頭にたてて、この難局を切り抜ける覚悟を決めます。

    1899年、鈴木商店は、台湾樟脳の販売権を獲得し、飛躍のきっかけを掴みます。
    そして、1905年、小林製鋼所(神戸製鋼所の前身)を買収します。

    第一次世界大戦時の好況の波に乗り、最も大規模な投機を繰り広げたのが鈴木商店です。

    高価な海外電報を駆使して、情報を集め、輸出入を行ない、必要な会社を買収します。

    船舶、鉄、炭鉱、綿、人造絹糸、穀物・・・・

    鈴木商店の事業は、目覚しい拡大を果たします。 スエズ運河を通る船舶の10%は、鈴木商店のものでした。

    1919〜20年の全盛時代、鈴木商店の売上げは、16億円に達して、三井物産(12億円)、三菱を凌いでいたのです。

    資金を提供したのは、台湾銀行です。
    同銀行は、内地に進出するためには、非財閥系の鈴木商店に近づくしかなかったのです。

    ◆◆当時の直吉の俳句です。◆◆
    ◆◆ 初夢や 太閤秀吉 ナポレオン◆◆

    ◆◆ しかし、これは、1980年代末期と同様のバブルだったのです。◆◆
    ◆◆そして、今日の日本と似た時代が訪れます◆◆

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    (2001/12/12)
    第一次世界大戦後反動恐慌と震災手形

    1920年3月15日、東京株式取引所の株価は大暴落します。
    これをきっかけに、第一次世界大戦後の反動恐慌が始まります。

    平均株価は、この後三ヶ月間で半値になったそうです。
    主要商品も暴落します。生糸の価格は1/4に、綿糸の価格は1/3になってしまいます。

    海上運賃も、船舶の価格も下落の一途・・・

    金子直吉率いる鈴木商店は、借金に頼りながら、投機的な事業拡大を敢行してきました。
    同社は、急激な環境の変化に対応できずに、壊滅的な打撃を被ります。

    そして、1923年9月1日、午前11時58分、関東大震災が東京を襲います。マグニチュード7.9のプレート移動型地震により、死者・行方不明者は、10万人に達しました。

    経済に与える影響も深刻です。

    9月7日、井上準之助蔵相は、支払い猶予令を出して、被災地の債務の支払いを一ヶ月猶予する措置をとります。

    そして、9月27日、震災手形割引損失補償令を公布します。

    これは、震災前に銀行が割り引いた手形のうち、震災で決済出来なくなったものは、日銀が再割引きして銀行の損失を救うというものです。さらに、政府が、日銀の損害を1億円を限度に保証するという内容でした。

    鈴木商店と台湾銀行は、この制度を徹底的に悪用します。
    バブル時の放漫経営のつけから生じた手形を、震災手形として、日銀に割り引かせたのです。

    1926年末の震災手形の合計2億680万円のうち、台湾銀行は1億4万円で48%を占めます。
    そして、台湾銀行の手形のうち、7割が鈴木商店のものなのです。

    震災手形の期限は、当初1925年9月30日でした。

    直吉は、うそぶきます。
    「もし、鈴木商店が潰れたら、日本財界が潰れるのである。だから政府も決して鈴木を潰さないであろう。」

    ◆◆直吉の予言どおり、震災手形は、1年ずつ2回、先送りされます。◆◆
    ◆◆ 不良債権を整理せず、合理化も真剣に行なわずに取り繕おうとしたのです。◆◆
    ◆◆ そして、最終期限の1927年(昭和2年)が巡ってきます。◆◆

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    (2001/12/14)
    片岡蔵相の失言と三月恐慌

    1927年3月14日、衆議院予算委員会の始まる直前の出来事です。
    東京渡辺銀行が正午の資金繰りに困り果て、同行専務の渡辺氏は、大蔵省の事務次官に泣き付きます。

    次官は、次のメモで片岡蔵相に緊急事態を知らせます。
    「本日正午、東京渡辺銀行が支払いを停止せり。」

    同委員会では、来る9月30日が期日となる、震災手形を10年間繰り延べる法案が審議されていました。
    与党憲政党の同法案を政友会が猛反対していました。

    政友会の吉植庄一郎は、
    「政商を助けるために、国家の金を投入すべきでない」
    「台湾銀行などの所有する震災手形の金額を示せ」
    「銀行が潰れるたびに国家がいちいち救済するというのでは、自由競争の原理が壊れる。」と追求します。

    不良銀行の名前や問題企業の名前が明らかになると、預金者が銀行に殺到して取り付けが起きたり、企業の信用不安が生じます。

    1920年3月片岡蔵相は、反論します。

    「そんなことは、できません。・・・・
    現に今日正午頃において、東京渡辺銀行がとうとう破綻を致しました。」

    ところが、同行は、資金繰りに成功して破綻を辛くも免れていたのです。

    東京渡辺銀行の幹部は、このニュースを聞いて喜んだといいます。
    「どうせ潰れるところだったが、これで蔵相の失言のせいにできる。よし!明日から休業だ!」
    姉妹銀行のあかぢ貯蓄銀行も休業します。

    この事件が三月の金融恐慌の発端でした。預金者の不安が燎原の火のように広がり、中小銀行に殺到し預金を引き出します。 中小銀行は、現金を見える場所に積んでこれに対抗します。

    3月19日中井銀行、21日左右田銀行、八十四銀行、中沢銀行、22日村井銀行が力つき、休業を余儀なくされます。

    21日には、日銀が非常貸出を実施します。

    片岡蔵相問責問題で、国会は乱闘騒ぎになり紛糾します。
    事態が緊迫するなか、震災手形救済法案は3月23日貴族院を通過します。

    パニックもこの日以降、下火になります。

    ◆◆しかし、この法案には、次の付帯決議がついていました。◆◆
    ◆◆ 「今後、台湾銀行の根本的整理を行い、その基礎を強固にすべし。」◆◆

    ◆◆ さしもの、取り付け騒ぎも収まったかに見えました。◆◆
    ◆◆ ところが・・・・◆◆

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    (2001/12/15)
    台湾銀行破綻と四月恐慌

    4月4日、付帯決議を受けて、井上準之助を会長とする台湾銀行調査会が発足します。

    しかし、台湾銀行は、これより以前、大きな勝負に出ます。

    3月24日、同行は役員会で「鈴木商店への新規融資を打ち切り」を決定して、27日鈴木商店に正式に通告します。
    4月1日、この事実は、各新聞に報道されます。

    台湾銀行の決断は、裏目に出ます。

    4月5日、万策つきた鈴木商店は、営業停止を発表します。
    市中銀行が、台湾銀行へのコールを一斉に回収し始めたのです。

    4月8日、鈴木商店系の六十五銀行が取り付けにあい休業に追い込まれます。

    台湾銀行は、3月末時点で、鈴木商店に対して、3億5000万円の貸し付けがありました。
    台湾銀行の危機は、誰の目からも明らかになります。

    若槻内閣は、緊急勅令を立案して、2億円の政府保証で日銀の特融を行い、台湾銀行を救う計画を練り上げます。
    結論は、4月17日の枢密院会議に委ねられます。

    日本中が、固唾を飲んで結論を待ちます。
    日本の危機回避を説く閣僚達に対して、枢密院は憲法論をふりかざして反対します。

    午後3時55分、19対11で台湾銀行を救う緊急勅令案は、否決されます。
    若槻内閣は、天皇への上奏を諦めて、無念の総辞職をします。
    この報は、直ちに全国に伝わります。

    4月18日、台湾銀行は、内地及び海外の支店を閉めると発表します。

    一流銀行の破綻を契機に、空前の金融パニックが、再び全国各地を襲います。

    18〜19日近江銀行、泉陽銀行(大阪)、蒲生銀行(滋賀)、葦名銀行(広島)が倒産。 20日には、西荏原銀行(岡山)、広島産業銀行が休業。

    そして、21日、3億7000万円の預金を誇る、東京5大銀行の一つ十五銀行が、休業に追い込まれます。

    四月恐慌は、18の銀行を閉鎖に追い込みました。
    三月のと比較すると規模が大きく、より深刻だったのです。

    4月20日、政友会の田中義一新内閣が発足します。
    注目の蔵相には、高橋是清が選任されます。

    ◆◆リーダーの違いで、いかに国の運命が変わるか。◆◆
    ◆◆ 偉大な政治家・高橋是清が、どんな手段で日本を救ったか?◆◆
    ◆◆ 完結編は、明日発表します。◆◆

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    (2001/12/16)
    高橋是清と恐慌の終焉

    政府は、最初の閣議で、緊急勅令を出して3週間の支払い猶予令(モラトリアム)を上奏することを決めます。 しかし、手続きと翌日施行の関係で、3日間が空白となります。この間の銀行は破壊尽くされるでしょう。

    1927年4月20日午後9時、高橋是清は、自宅に日銀総裁、副総裁、大蔵事務次官を呼び対策を練り上げます。
    日銀の非常貸出が、その場で決まります。

    輪転機が、24時間、フル回転します。
    それでも印刷が間に合わず、表だけを印刷した裏白紙幣が準備されます。

    21日、高橋は、三井銀行の池田茂彬と三菱銀行の串田万蔵を招きます。 両行とも預金の預け換え先として、最も信頼されている銀行です。

    「日本の危機を救うため、明日から2日間、自発的に休業していただきないでしょうか。」
    高橋の頼みを両行は快諾します。

    直ぐに、東京銀行集会所と東京手形交換所の緊急理事会が開かれ、
    22日(金)、23日(土)の全国一斉休業が決まります。

    22日、支払い猶予令の緊急勅令が、枢密院であっさりと満場一致で可決されます。
    取り付けが起こると、責任追及を恐れた枢密院が、憲法解釈を変えてしまったのです。

    ・・・・・・さて、銀行再開の朝・・・・・・・

    この銀行の命運は、この日で決まります。
    行員の家族も手伝いに動員されます。

    行内は、隅々まで掃除され、ピカピカに磨かれます。
    この三日間で印刷された真新しい紙幣が、カウンターに山積みされています。

    早朝から並ぼうと来た人は驚きます。
    銀行が、いつもより早めに業務を開始したのです。
    払い戻しの窓口を増やし、笑顔で顧客を待ちます。

    仕事を休んで、預金を下ろしに駆け込んで来ます。
    しかし、行列がないこととや紙幣の山を確認して、そのまま帰る人もいたようです。

    徹夜続きの高橋に、全国からの電報が届きます。

    「平穏無事」
    危機は、去ったのです。

    4月恐慌の時の預金の引き出し額は、約6億円でこれは、全預金高約90億円の6.7%に当たります。
    4月の日銀貸し出しは、16億800万円、兌換券の発行額は14億6000万円にも達しました。
    25日には、200円の高額紙幣が誕生します。

    この時期、三井、三菱、住友、安田、第一の五大銀行への預金の集中が進みます。

    高橋は、5月12日モラトリアムの期限が過ぎても混乱がないことを確認すると、6月2日蔵相を辞職します。
    わずか、42日間の在職でした。

    ◆◆この人は、日銀時代には、日露戦争の公債発行に活躍したし、◆◆
    ◆◆金解禁で混乱した日本経済を回復させたし、頼りになりますね。◆◆
    ◆◆ 平成の高橋是清は、何処に?◆◆

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