■経済史に学ぶ(江戸時代以前)■

---目次---
  • チューリップ球根暴落事件
  • 南海泡沫株事件
  • アイルランド大飢饉(前編)
  • アイルランド大飢饉(後編)
  • 田沼時代と寛政の改革
  • 札差と棄捐令(前編)
  • 札差と棄捐令(後編)
  • 幕末庶民を襲ったインフレーション

  • (2000/9/3)
    チューリップ球根暴落事件

    世界で最初に典型的なバブルの崩壊が起こったのは、17世紀のオランダです。
    当時オランダは平和が続き、海洋貿易で富を蓄え、国力が衰退したスペインに替わり、世界の覇権を握りつつありました。

    トルコ原産のチューリップが、オランダにもたらされたのは今から400年前のことです。この美しい花は、人々の心を魅了し国中に広まりました。そして、品種改良が進み、ますます人気が高まります。豊かなオランダには、金が余っていました。

    そして、珍しいチューリップの球根の値段は、限りなく上昇し、驚くべきことに、ついに投機の対象になってしまいます。

    大金持ちも、普通の市民も買えば確実に値上がりするチューリップに財産を賭けてしまうのです。

    例えば、センパー・アウグストゥスという種類のたった一個の球根が、4,600グルデンの金と新しい馬車と 二頭の葦毛の馬と完全な馬具と交換されました。この取引は、先物取引(契約書)で行われました。

    1637年のある日、チューリップ球根の価格は突然、暴落しました。

    買い手が何処にもいないのです。狸がくれた小判が木の葉に戻るように、チューリップ球根は、貴重な財産から、ただの花の球根に化けてしまいます。借金で投機を行っていた多くの人は、ババ抜きのババをつかみ、破産しました。

    球根市場だけでなく、オランダ経済全体が、この影響を受け、長期間の深刻な不況に陥りました。(チューリップ恐慌)

    ◆◆有名な話でご存知の方も多いと思いますが、◆◆
    ◆◆バブル崩壊を理解するのに一番参考になる例ですね。◆◆

    ◆◆オランダでは、この経験を充分生かせず、◆◆
    ◆◆100年後ヒヤシンス恐慌が起こったそうです。◆◆

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    (2000/9/27)
    南海泡沫株事件

    さて、バブル崩壊の語源となった「南海泡沫株事件」は、18世紀初頭のイギリスでおこります。

    1711年南海株式会社が、ロバート・ハーリー伯爵によって設立されます。南海とは、南アメリカ大陸の海岸のことです。 この会社は、イギリス政府によって、南アメリカ大陸との貿易の独占権が与えられていました。見返りに南海会社は、政府の負債の一部を引き受けました。

    当時イギリスの東インド会社が、目覚しい発展を遂げていたこともあり、連想から、この株の将来性を先取りして人気は急激に高まります。 イギリスは、強大になりつつある国家、多くの人が富を蓄えていました。

    1720年のことです。1月には、わずか128ポンドだった株価が、6月には、1050ポンドに暴騰します。

    ところが、よく考えてみると、南アメリカ大陸はスペインの勢力下にありました。

    この事実に変化がない限り、イギリスと南米との貿易の拡大は、ありえなかったのです。南海株式会社は、ほとんど利益をあげていませんでした。また、将来的にも発展の見通しはなかったのです。

    驚くべきことに、南海株式会社を真似た株式会社が詐欺師達によって多数設立されます。永久機関を開発する会社、海水から黄金を取り出す会社、馬の保険を扱う会社など、後にこれらの会社は、泡沫会社と呼ばれました。 イギリス政府は、国策会社南海株を守るためこれらの泡沫会社を禁止します。

    しかし、南海株の実体は、次第に皆が知ることとなります。
    大暴落が始まり、同年9月には175ポンドになってしまいます。

    多くの人が、破産します。南海株は、バブル崩壊以降、南海泡沫株と呼ばれるようになります。イギリス経済は、大混乱になり、責任者の魔女狩りが始まります。 命の危険を感じたロバート・ハーリー伯爵は、大陸に逃げ21年間身を隠します。多くの南海会社関係者や関与した政治家が、自殺したり、財産を没収されたり、刑務所に入れられました。

    (参考文献)バブルの物語 ガルブレイス著 ダイヤモンド社

    ◆◆バブルで巨額負債を残して倒産した人へ一言◆◆
    ◆◆ 「18世紀に生まれないで幸運でした」 ◆◆
    ◆◆さて、「南海株とIT株の類似性」なんて言ったら、誰かに怒られそうですね。◆◆

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    (2001/8/22)
    アイルランド大飢饉(前編)

    英国とアイルランドは、隣国同士なのに、あまり仲が良くありません。
    まるで、東アジアの二つの国ソックリです。

    何故、仲が悪くなったのか?

    その一つの理由は、以下に述べる歴史にあると思います。

    1649年アイルランドは、クロムウェルによって征服され、イギリスの植民地となります。
    アイルランド人の土地の所有は禁止されます。

    アイルランド人は、イギリス人の土地所有者の小作農として働くしかなかったのです。

    1801年イギリスは、アイルランドを併合します。
    1829年カトリック教徒開放法により、宗教的な差別はなくなります。

    この頃、イギリスは、毛織物産業が盛んになり、原料となる羊の飼育が儲かる産業になります。 地主達は小作人を追い出して、土地を囲い込み、羊を飼いたいと思ったのです。

    小作地から追い出されたアイルランド人は、路頭に迷います。

    自由競争の経済原理には適合しますが、人道的には大問題ですね。

    そして、1845年、最大の悲劇は始まります。

    この頃のアイルランド人の主食は、ジャガイモでした。

    この年、ジャガイモに胴枯れ病が発生して、全ジャガイモ畑に伝染します。
    丹精こめて作ったジャガイモが、まったく食べられないのです。

    アイルランド人は、食料不足で栄養失調になり、小作料も払えません。 地主は、ジャガイモよりも、羊を飼ったほうが儲かります。

    地主は、「囲い込み」をするために、アイルランド人を土地から追い出します。

    疫病の対策がわかりません。当時は、細菌や消毒法が発見されていなかったのです。
    次の年も収穫がなく、その次ぎの年もジャガイモは枯れてしまいます・・・

    蓄えも底をつきます。

    ◆◆なんと100万人のアイルランド人が、餓死したと言われています。◆◆
    ◆◆(アイルランド大飢饉)◆◆
    ◆◆ この続きは、明日発表します。◆◆

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    (2001/8/23)
    アイルランド大飢饉(後編)

    大飢饉が起こる前のアイルランドの人口は、820万人といわれています。

    アイルランドに残っても、餓死とチフスが待っているだけです。
    若者を中心に、故国に見切りをつけ、海外に脱出する人が増えます。

    自由と希望の新大陸、アメリカへ移住した者は、100万人に達します。
    あのケネディ大統領の祖父も、その一人なのです。

    イギリス、オーストラリアへも民族大移動は、続きます。紅茶で有名なリプトン家は、その末裔です。

    アイルランドの人口は、餓死者と移住者で350万人も減ってしまいます。
    アイルランドの飢餓を克服するため、イギリス政府とイギリス人は、支援活動も行っていたようです。

    しかし、善意のほうは、直ぐに忘れます。
    この不幸な出来事に関して、イギリスに責任があると思う人が、
    アイルランド人の多数を占めています。

    地主の悪辣な行為や政府の無策のみが、語り継がれます。

    この反英感情は、アイルランドの独立運動に結びついていきます。

    1870年、イギリスはアイルランド土地法を制定して、アイルランド人小作農の土地所有を援助します。
    しかし、アイルランド人達は、納得しません。

    1916年4月24日、アイルランドの急進派は、武装蜂起しますが、鎮圧され、指導者は処刑されます。
    彼らは、英雄としてアイルランド人の尊敬を集めます。

    1922年、アイルランドは、イギリス連邦の自治領(アイルランド自由国)となります。
    カナダやオーストラリアと同じ扱いでした。

    イギリス国王に忠誠を誓うことと、北アイルランドが領有されないことが、アイルランド人には不満でした。

    1949年4月、アイルランド人は、アイルランド共和国として悲願の独立を果たします。

    しかし、取り残された北アイルランド(プロテスタント系が多い)では、IRA(アイルランド共和軍)が南北統一を目指して、ゲリラ活動を続けます。

    1997年、イギリスのブレア首相が
    「大飢饉で大量の餓死者が出たのは、イギリス政府の自由放任経済にも責任がある」
    と謝罪します。

    この発言は、両国内で論争を巻き起こしました。

    1998年、IRAとイギリスは、歴史的和解に成功します。

    何処の国も、同じような問題で苦労してますね。

    ◆◆さて、大飢饉が発生して、大量の難民が発生しそうな国が◆◆
    ◆◆日本の近くにありますね。◆◆

    ◆◆ 「餓死者が出たのは、日本人とアメリカ人の責任」◆◆
    ◆◆などと150年間、言われないようにしないと大変ですよ。◆◆

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    (2000/11/4)
    田沼時代と寛政の改革

    田沼意次は、暗君といわれた、将軍・家重、家治を支え、側用人、老中として20年間幕政を取り仕切りました。 彼は、商業活動を重視した優れた政治家でした。

    開発した蝦夷地や三陸の海産物を中国に輸出したり、平賀源内に命じて、漢方薬の国産化に成功したりして、貿易収支を改善します。新しい産業が発展し、貨幣経済が広がります。新田開発が盛んになり、農業生産も高まりました。

    長期政権は、必ず腐敗します。彼の唯一の欠点は、ご承知のとおり、賄賂が大好きだったことです。 田沼の屋敷に京人形の大きな箱が、送られます。開けてみると、なんとビックリ生身の京美人が入っていたそうです。
    しかし、賄賂は表面上の理由で、彼を窮地に追いやったのは、次の大事件なのです。

    1783年(天明3年)浅間山が突然大噴火します。

    降り積もる火山灰と日照不足から、冷害が発生し、奥羽地方の農作物は全滅、
    多くの人が飢え死にします。(天明の大飢饉1782〜86)

    各地で一揆、打ちこわしが発生、政情不安が高まります。
    幕府は、庶民の恨みをそらすため、最高責任者を生贄(いけにえ)にしようと企てます。

    1786年、賄賂政治を糾弾する怪文書が流布され、田沼意次は失脚します。 奥州白河の藩主・松平定信が老中になり倹約令、異学の禁などを発令、寛政の改革(1787〜93年)が実施されます。

    田や沼や濁れる御世をあらためて、清く澄ませ白河の水

    こんな落首がはやり、熱狂的人気の中、清廉潔白な松平定信は、改革を推進します。 ところが、松平は賄賂は取らないが、経済音痴で倹約ばかりします。江戸の町は、ますます不景気になります。西洋の学問も禁止され、日本は世界から取り残されます。

    白河のあまり清きに耐えかねて、濁れる元の田沼恋しき

    不景気に苦しんだ江戸庶民は、田沼の政策手腕を懐かしみ、こんな落首を詠みました。

    ◆◆さて、最近の日本列島の火山・地震活動が活発ですね。◆◆
    ◆◆不景気で株もさっぱり。 ◆◆

    ◆◆新時代を切り開く田沼意次のような大政治家で、賄賂をとらない人。◆◆
    ◆◆ 早く出てきて、総理大臣になって下さい。◆◆

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    (2001/6/4)
    札差と棄捐令(前編)

    江戸時代、将軍の直参の旗本は5200人、御家人は1万7000人もいました。
    旗本八万旗と言うのは、陪臣も含めてそのぐらいいたのでしょう。

    江戸時代になると、貨幣経済が発達します。彼らは、俸禄として受け取った米を米問屋に売却しなければなりません。

    この面倒な仕事を100俵につき金3歩という低価格で請け負ったのが、札差の始まりです。

    幕府の米蔵は、水運に便利な隅田川沿いの蔵前に、ありました。
    札差は、蔵前や浅草に住んでいました。

    江戸は、誘惑の多い文化の中心地。旗本ともなると、冠婚葬祭など突然の出費が重なることもあります。いくら金がなくても、家格に応じたやり方に従わなければ、笑いものになります。

    札差は、旗本、御家人に対する高利貸しを兼ねるようになります。

    札差は、2年先までの俸禄を喜んで貸します。
    俸禄から利息を引いて、残りを旗本に渡せばよいのです。
    利息は、表向きは年18%に抑えられていましたが、実際は年40%を超えていました。

    そして、返却限度額を超えると、札差は、手のひらを返したように旗本に冷たくなります。 必要以上の追い貸しは、絶対にしません。

    なにしろ、給料を抑えているようなもので、安全で高収益な商売です。

    やがて、高利貸しが札差の本業となります。 しかも、八代将軍吉宗の頃、札差は、たった109人に制限され、株仲間をつくることに成功します。

    優良顧客2万2200人に対する高利貸しを、わずか109人の札差で独占できたのです。
    こうして、札差は、競争なしに、莫大な利権を手に入れ、大金持ちになります。

    ◆◆元禄時代になると、札差の株の価格は、千両まで値上がりします。◆◆
    ◆◆ 彼らは、次第に金を浪費し、高慢になっていきます。◆◆

    ◆◆ 驕れる者、久しからず・・・◆◆
    ◆◆ この続きは、明日発表します。◆◆

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    (2001/6/5)
    札差と棄捐令(後編)

    当時の江戸には、十八大通と呼ばれる、義侠心に富み、しゃれ気があり、吉原遊びに途方もない金を使う18人の有名人がいました。

    浅草蔵前の札差たちは、その財力を背景に、
    粋人として十八大通の過半数を占めていました。

    一方、旗本、御家人の中には、札差への元利の支払いから、生活に困窮するものが現われます。

    田沼時代末期になると、飢饉の影響で米価が高騰し、江戸で打ちこわしが頻発します。 蔵前の札差も、軒並み困窮民から施米の要求を受け、拒むと打ちこわしに遭います。

    高まる社会不安の中で、田沼意次は失脚して、松平定信が老中になります。
    清廉潔白な性格の定信は、散財ぶりが目に余る札差を憎み、排除することを決断します。

    1789年(寛政元年)9月16日、松平定信は、
    寛政の改革の一環として、棄捐令を発布します。

    棄捐令の概略は、次のとおりです。

    1. 6年以前の札差の貸付金は、すべて帳消し(棄捐)にする。
    2. 5年以内の貸付金は、利子を年6%に減額して、永年賦で支払えばよい。
    3. 永年賦とは、知行高100俵につき年間3両の元金を支払えばよいことを言います。

    さて、借金で首が回らなかった旗本は、大喜び。
    反対に栄華を極めた札差は、壊滅的な打撃を受けます。

    88人の札差が、棄捐令で被った損害は、108万両に達すると言われています。

    「蔵前の旦那衆が、たった一日で没落した」という噂は江戸中を駆け巡ります。
    あれほど貴重だった札差株は、大暴落、買い手がつかなくなります。

    吉原は、この影響で客足が遠のき、火が消えたようになったそうです。

    ◆◆現在におけるゼネコンの借金棒引き、◆◆
    ◆◆規制緩和の重要性などを考えるうえで、◆◆
    ◆◆興味深い事例と思いますが、如何でしょうか?◆◆

    (参考)「江戸の札差」  北原 進 著  吉川弘文館

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    (2001/1/13)
    幕末庶民を襲った
    インフレーション

    幕末に起こった銀の流入と金の流出を食い止める切り札となったのが、万延小判です。

    この小判、小ぶりで金の含有量も天保小判の1/3でした。従って、天保小判1枚に対して、万延小判3枚が交換されることになります。

    この直前、すべての日本国民はふるいにかけられ、
    経済的な面で、天国行きと地獄行きに分類されてしまいます。

    天保小判の価値に早くから気づいた日本人は、これを集めて財産を3倍にします。すなわち、努力なしで天国に行きます。

    そして、天保小判を持たない人や、情報不足でわずかのプレミアムでこれを手離した人は、後に生活に苦しむことになるのです。

    開国と共に、輸出品の生糸やお茶は、高騰して、庶民の手に入らなくなります。 また、幕府は、万延小判との交換で、洋銀を回収して近代兵器を手に入れます。 すなわち、綿織物などの消費されるものは、ほとんど輸入されず、輸入による物価の下落は期待できなかったのです。

    そして、万延小判によって通貨の発行量が、瞬時に3倍近くに増加したのです。

    いったい何が、起きるでしょうか?

    答えは、幕末の大インフレーションです。
    1860年(万延元年)から1866年(慶応2年)までの7年間で、物価は約7倍に高騰します。

    庶民はの生活は、苦しくなり、社会不安が高まります。
    こうした状況で、明治維新を迎えたのです。

    さて、日本の国債残高は、GDPの120%を超えています。これは、先進国では一番悪い数字です。あの陽気で楽天主義国家のイタリアより悪いのですよ。

    この国債を減らすには、どうすればよいか?

    1. 消費税を大幅にあげる。
    2. 公共事業や補助金を大幅に減らす。

    いや、どちらもやらずにすむ究極の方法があるのです。 すなわち、日銀が通貨の番人の役目を放棄して、銀行券を乱発して、国債を引き受ければよいのです。簡単です。

    ◆◆21世紀の日本で、万延小判が、そのうち出回るかも知れませんね。◆◆
    ◆◆その場合、インフレと円安・・年金生活者の運命は?・・・◆◆

    ◆◆ 日本人皆で、痛みを覚悟して、早く構造改善に取り組まないと、◆◆
    ◆◆歴史は、繰り返します。◆◆

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