■戦争に学ぶ■

---目次---
  • アヘン戦争
  • ナポレオンと大陸封鎖(前編)
  • ナポレオンと大陸封鎖(後編)
  • キューバ危機(前編)
  • キューバ危機(後編)

  • (2001/10/22)
    アヘン戦争

    イギリス人は、紅茶好きで知られています。19世紀、超大国イギリスは、必需品のお茶を清から輸入していました。 イギリスが清に輸出できるものは、ほとんどないので、銀が流出してしまいます。

    そこで困ったイギリスは、とんでもないものを中国で売ることにします。
    それは、インドで栽培した麻薬のアヘンでした。

    インドには、英国から綿織物を輸出すれば、三角貿易が完成します。
    中国にアヘン中毒患者が増加していきます。
    アヘンの輸入額はお茶の輸出額を超えて、銀が中国から流出するようになります。

    清は、アヘンの輸入を禁じますが、イギリス商人は、役人を買収し組織的な密輸を行います。
    この結果、アヘン価格が高騰して、イギリスの利益は増加します。

    1839年2月4日、林則徐は、皇帝の命令に従い、イギリスのアヘン商人に対して断固とした措置を取ります。

    何故、イギリス国内では禁止されているアヘンを、中国に持ち込むのか?
    何故、中国人の財産を騙しとり、中国人の命を縮めるのか?

    こう言って、1400トンのアヘンを没収し、焼き払ったのです。
    主権国家としては、当然の胸のすく行為ですね。

    ところが、当時の欧米列強は、軍事力のないアジア、アフリカ諸国に対しては、何をしてもよかったのです。

    1840年6月、報復のための大英帝国遠征軍が到着します。
    アヘン貿易を妨害されたという不思議な理由で、宣戦布告がなされたのです。

    60門の大砲と20隻の軍艦に守られた4000人のイギリス兵は、世界最強の軍隊です。
    迎え撃つ清の軍隊は10万人でしたが、充分な大砲も軍艦もありません。

    広東周辺の軍事拠点は、次々とイギリスの手におちます(アヘン戦争)。
    休戦するには、イギリスの許しを乞うしかありません。

    1842年、清にとって、屈辱的な南京条約が結ばれ、イギリスの一方的な言い分を呑んだのです。

    1. 香港の割譲
    2. 在中国、イギリス人の治外法権
    3. 焼却したアヘンの損害賠償
    4. 関税自主権の放棄
    5. そして、イギリス遠征軍の派遣費用を含む巨額の賠償金を支払うことになります。

    人間として正しい行為をした林則徐は、罷免されました。

    ◆◆まさに、中学校におけるイジメと共通した、◆◆
    ◆◆弱肉強食の帝国主義の世界です。◆◆
    ◆◆ この事件は、ペリーの開国要求の際、幕府に大きな影響を与えました。◆◆

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    (2001/5/14)
    ナポレオンと大陸封鎖
    (前編)

    1804年ナポレオンは、皇帝に即位します。

    産業革命が始まり、工業を背景とした経済力を身につけたイギリスは、当初、軍事大国フランスとの自由貿易を望んでいました。 しかし、ナポレオンは、フランスの産業を保護して、イギリス製品を閉め出します。

    イギリスは、しかたなくオーストリアとロシアを誘い、三回目の対仏大同盟を結成します。

    これに激怒したナポレオンは、十数万人の兵力をドーバー海峡に結集して、イギリス本土上陸を計画します。
    イギリスのネルソン提督は、トラファルガーの海戦で、フランス・スペイン連合艦隊を粉砕して、制海権を握ります。ネルソンは戦死しますが、彼のおかげでイギリスは危機を脱します。

    ・・・そして、1805年12月5日、オーストリア(現在のチェコ)のアウステルリッツ・・・・

    フランス軍と、ロシア・オーストリア連合軍は、ヨーロッパの覇権を賭けて激突します。

    ナポレオン一世率いるフランス将兵は、75,000人。
    ロシア皇帝アレクサンドル1世とオーストリア皇帝フランツ2世の連合軍は、85,000人。

    三人の皇帝が戦ったので、三帝会戦とも呼ばれています。

    ナポレオンは、わざと自陣に弱点を作り、敵をそこに引きつけます。 そして、手薄になった敵陣の中央突破に成功します。
    戦術の天才ナポレオンの完勝でした。

    この一戦(アウステルリッツの戦い)を契機に、ヨーロッパの大半はナポレオンの支配下に入ります。

    陸の戦争では、連戦連勝のナポレオンも、ドーバー海峡を隔てたイギリスだけは、どうすることもできません。

    1806年、ナポレオンは神聖ローマ帝国を解体して、ベルリンに入城します。
    ナポレオンは、この地で、唯一の敵イギリスを経済的に屈服させる秘策を練り上げます。

    10月11日、ナポレオンは、大陸封鎖を宣言します。

    ◆◆大陸とイギリスとのあらゆる商取引、通信は禁止されます。◆◆
    ◆◆ フランス支配下のイギリス人は、財産を没収され、すべて戦争捕虜となります。◆◆
    ◆◆1807年、全盛時代のナポレオンの支配地は、7王国、30公国に及んでいました◆◆

    ◆◆さて、この措置は、どんな結果をもたらすか?◆◆
    ◆◆明日に続きます◆◆

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    (2001/5/15)
    ナポレオンと大陸封鎖
    (後編)

    ナポレオン支配下のヨーロッパ諸国は、品質が良く低価格のイギリス工業製品を、大陸封鎖により、買うことができません。大陸諸国間には、関税がかけられ、フランスの無税の粗悪品を押しつけられました。

    一方のイギリスは、アメリカ大陸やインドとの貿易により、活路を開くことができました。

    また、農業国プロイセンとロシアは、イギリスに農産物や木材を売ることで、経済が成り立っていました。 農業大国のフランスが、イギリスに代わって農産物を買ってくれるわけがありません。

    イギリスを経済的に追い詰めるはずの大陸封鎖は、
    反対に大陸諸国を苦境に立たせます。

    特に、困ったのは、農地を所有するロシアの貴族たちです。
    1810年、彼らは、事態を打開するため、大陸封鎖を公然と破り、中立国の船舶を使い、バルト海から農作物をイギリスに輸出します。

    ロシア皇帝も、これを黙認せざるをえません。
    ナポレオンは、最後通告しますが、ロシアは密輸を止めません。

    ナポレオンは、ロシア遠征を決意します。

    1812年6月4日、フランス・オーストリア・イタリア・ライン同盟・プロイセン・ポーランドから国境に結集した大陸軍は、総兵力60万人
    これを迎え撃つロシア側は、16万人に過ぎません。

    ロシアは、正面衝突を避け、撤退を繰り返しながら、ナポレオン軍を奥地に誘い込みます。
    1812年9月14日、ナポレオンはついにモスクワに入城します。
    このときの兵力は、10万人に減っていました。

    ロシアは、焦土作戦を発動して、首都モスクワを焼き払います。大陸軍が期待していた食料も住居も、燃え尽きます。

    ・・・・・・1ヵ月後の1812年10月19日・・・・・・・

    ナポレオンは、苦渋の決断をします----モスクワ撤退。

    11月、冬将軍の到来です。
    寒さに強いロシアのコサック兵の反撃が始まります。
    この年の寒波は例年になく厳しかったようです。

    12月10日、ナポレオンは、ニーメン川を渡ってロシアから辛くも脱出します。

    付き従ったのは、ホームレスのようなボロをまとったフランス兵。
    その数は、わずか5000人でした。100人中99人以上が帰還できなかったのです。

    「ナポレオン敗れる」の知らせは、ヨーロッパ中を駆け巡り、各地で反乱がおこります。

    ◆◆天才ナポレオンも、その後、形勢を逆転することは不可能でした。◆◆
    ◆◆ 大陸封鎖は、ナポレオン没落の遠因かもしれません。◆◆

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    (2002/12/22)
    キューバ危機の13日間
    (前編)

    キューバに革命が起こり、カストロ政権が成立して三年後。

    1962年10月14日、アメリカの偵察機U2は、反米国家キューバの上空を飛行していました。
    ミサイルの届かない27,000m上空から、一枚の写真を撮影します。

    10月16日(第1日目)、若き大統領ケネディのもとにその写真は届けられます。 秘密ミサイル基地と射程距離2100Kmの中距離核ミサイルが鮮明に写っていました。

    そのミサイルには、広島の原爆の約60倍もの威力を持つ核弾頭が、登載されていました。 アメリカの東部は、全て射程距離に入ります。

    フルシチョフ率いるソ連は、若いケネディを甘く見ていました。 25隻のソ連船が核ミサイルを満載して運行中でした。

    ケネディはどう対抗するか?

    10月22日(第7日目)、ケネディは、キューバを海上封鎖します。
    ソ連船が停戦命令に従わなければ、撃沈させると宣言したのです。

    10月23日(第8日目)、ソ連は兵員の休暇を取り消し、ワルシャワ条約機構加盟国に警戒態勢を発令します。

    10月24日(第9日目)、キューバへの武器輸出を巡って、国連で米国とソ連は対立します。

    世界中が、核戦争を意識し、固唾を飲みます。

    フルシチョフは、迷っていました。

    ソ連船を引きかえしたら、敗北。
    ソ連船をキューバに入港させ、戦争にならなければ大勝利。
    しかし、万が一核戦争になったら?

    フルシチョフは、KGBからケネディが教会で礼拝したとの報告を受けます。
    アメリカの大統領は、宣戦布告の前に必ず教会に行くそうです。

    夜、核戦争の恐怖を感じたフルシチョフは、ソ連船をUターンさせます。
    ソ連内部の強硬派を抑えての決断でした。

    10月27日、キューバを低空でアメリカの偵察機U2が飛行します。
    フルシチョフも、カストロも偵察機に手を出してはいけない、と命令していました。

    しかし、血気にはやる現場の指揮官は、独断で地対空ミサイルを発射します。
    ミサイルはU2に命中。パイロットは戦死します。

    フルシチョフとカストロは、慌てます。

    ◆◆さて、ケネディは、どうでるか?◆◆
    ◆◆ キューバとアメリカは、北朝鮮と日本の関係と相似ですね。◆◆

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    (2002/12/23)
    キューバ危機の13日間
    (後編)

    「U2撃墜の報復にキューバを空爆せよ」という強硬論をケネディは、抑えます。

    1962年10月28日(13日目)

    世界の運命をかけたポーカーゲームの結末がでます。
    アメリカは、ソ連よりも核戦力で優位でした。

    フルシチョフは、アメリカがキューバに侵攻しないことを条件に、キューバにあるミサイルの解体、撤去することを表明します。 カストロは激怒しますが、フルシチョフは無視します。アメリカは、偵察機でミサイル撤去を確認して、海上封鎖を解きます。

    核戦争の危機は、去ったのです。

    このときの教訓から、アメリカとソ連のトップの間に専用電話(ホットライン)がひかれます。 フルシチョフは、このときの弱腰外交がたたり、64年10月失脚します。

    「13デイズ」というキューバ危機を題材にした映画がありましたね。

    ・・・・さて、キューバ危機と東証ダウ(現在の日経平均)の値動きです。・・・

    キューバ危機と株価
    日付 出来事 始値 高値 安値 終値
    1962年10月12日 1,293.52 1,293.52 1,293.52 1,293.52
    1962年10月13日 1,286.38 1,286.38 1,286.38 1,286.38
    1962年10月14日 ミサイルを確認
    1962年10月15日 1,272.76 1,272.76 1,272.76 1,272.76
    1962年10月16日 1,266.53 1,266.53 1,266.53 1,266.53
    1962年10月17日 1,245.52 1,245.52 1,245.52 1,245.52
    1962年10月18日 1,270.15 1,270.15 1,270.15 1,270.15
    1962年10月19日 1,262.21 1,262.21 1,262.21 1,262.21
    1962年10月20日 1,266.48 1,266.48 1,266.48 1,266.48
    1962年10月22日 市場終了後海上封鎖 1,255.57 1,255.57 1,255.57 1,255.57
    1962年10月23日 1,238.48 1,238.48 1,238.48 1,238.48
    1962年10月24日 夜半ソ連船進路変更 1,243.86 1,243.86 1,243.86 1,243.86
    1962年10月25日 1,240.45 1,240.45 1,240.45 1,240.45
    1962年10月26日 1,244.48 1,244.48 1,244.48 1,244.48
    1962年10月27日 1,236.50 1,236.50 1,236.50 1,236.50
    1962年10月28日 海上封鎖解除
    1962年10月29日 1,216.04 1,216.04 1,216.04 1,216.04
    1962年10月30日 1,217.04 1,217.04 1,217.04 1,217.04
    1962年10月31日 1,259.52 1,259.52 1,259.52 1,259.52
    1962年11月1日 1,286.09 1,286.09 1,286.09 1,286.09
    1962年11月2日 1,321.72 1,321.72 1,321.72 1,321.72
    1962年11月3日 1,329.45 1,329.45 1,329.45 1,329.45

    う〜む、不思議な現象です。
    海上封鎖が発表された直後、日本株は、ほとんど下がりません。

    封鎖が解除され、危機が去った日には、少し株が下がっています。

    私の予測と反対ですね。

    「アメリカが、中距離核ミサイルで狙われても、太平洋で隔たった日本経済には、まったく関係なし」というわけでしょう。

    ちなみに、1962年10月は、貿易の自由化が88%達成され、不況でした。
    10月27日には、日銀が公定歩合を1厘引き下げます。
    この後、日本はオリンピック景気で立ち直ります。

    一つ分かったことがあります。

    ◆◆北朝鮮が、核ミサイルでいくら恫喝外交しても、◆◆
    ◆◆韓国と日本が脅えるだけで、◆◆
    ◆◆安全地帯にいるアメリカはまったく動じませんね。◆◆

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