■経済史に学ぶ(戦後編)■

---目次---
  • 戦後経済史・預金封鎖と新円切り替え
  • いざなぎ景気と3C時代
  • ドッジ・ラインと安定恐慌
  • イスラム革命と第二次石油危機
  • 朝鮮戦争と株価(前編)
  • プラザ合意(前編)
  • 朝鮮戦争と株価(後編)
  • プラザ合意(後編)
  • スターリン・ショック
  • 「銀行よさようなら」時代
  • 証券恐慌(前編)
  • 証券恐慌(後編)

  • (2000/9/19)
    戦後経済史・預金封鎖と
    新円切り替え

    太平洋戦争後、進駐軍(GHQ)の施策で一般の人に最も多大な影響を与えたのは、昭和21年2月17日に実施された預金封鎖でしょう。

    悪性のイインフレや食糧難に対処し、銀行券の流通量を減らすため、この日突然、個人や法人が、銀行に預けていた現金は、全て封鎖されてしまいます。(手元にあった5円以上の紙幣も強制預金させられます。)

    そして、3月からは旧紙幣は、まったく使用できなくなり、旧紙幣に印紙を貼った新円のみが流通することになったのです(新円切り替え)。新銀行券を印刷する時間がなかったのです。

    封鎖された預金は、毎月世帯主が 毎月世帯主が300円、家族が100円のみを新円として、出金することができました。

    新円切り替え後も物価高騰は、続きました。物価が年間5倍というハイパーインフレの中、多額の資産を現金で持っていた人の受けた打撃は、 はかり知れないものがあります。戦前の大金持ちの多くが、このために没落しました。

    一方、その直前に物に換金して財産を増やした人もいます。

    例えば、国際興業の小佐野賢治氏は、戦前に軍部との取引を通じ巨額の現金を保有していましたが、昭和20年ホテルを三つ購入します。
    東武鉄道の根津嘉一郎から熱海ホテルと山中湖ホテルを、東急の五島慶太から 強羅ホテルを手に入れ、預金封鎖を偶然免れることが出来ました。当時は、観光ホテルの経営は、成り立たないと思われていたのです。ところが、小佐野は、GHQにホテルを貸すことで利益を得ます。

    また、インフレによる資産の増加もあり、大実業家への道を開くことができたのです。

    ◆◆インフレがひどくなれば、歴史は繰り返すかもしれませんよ◆◆

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    (2000/9/22)
    ドッジ・ラインと安定恐慌

    東西冷戦が深刻になると、アメリカは、日本の早急な自立とインフレの収束を望むようになります。昭和24年2月、デトロイト銀行頭取ドッジが特命公使として来日します。彼の指示により実施された強烈なデフレ政策をドッジラインといいます。

    まず、アメリカの援助と日本政府の補助金は、打ち切られます。多くの企業が恩恵を受けた復興金融債も廃止されました。統制は少なくなり、自由競争が促進されます。1ドル=360円の固定相場も決定され、現金の価値は安定します。

    シャープ(アメリカの大学教授)の勧告に基づき税制が改革されます。(本当の狙いは、税収の増加です。) 財政は、超緊縮予算となり、戦後のインフレは完全に収束しますが、極端な金詰りから、いわゆる安定恐慌がおこります。

    徴税の強化と資金不足から、多くの中小企業が倒産します。企業は自己防衛のため従業員の首切りに走り、失業者が町にあふれます。

    日本にとって、幸いだったのは、昭和25年6月朝鮮戦争が勃発して、特需が発生、ドッジ恐慌が短期で終ったことです。

    ◆◆さて、現在の日本、国債の増加がこのまま続くと、◆◆
    ◆◆消費税率の大幅引き上げと補助金削減の超緊縮予算は、避けられないでしょうね。◆◆
    ◆◆ 今度は、朝鮮戦争のような神風は、吹かないかもしれませんよ。◆◆

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    (2001/9/7)
    朝鮮戦争と株価の動き
    (前編)

    1945年8月15日、日本の敗戦に伴い、アメリカ軍とソ連軍が朝鮮半島の南北に駐留し、朝鮮は、38度線を境に分割されます。
    金日成率いる北朝鮮は、ソ連の支援のもとで、軍事力を増強して、南北朝鮮の武力による統一を決意します。

    1950年、6月25日、10万人の北朝鮮軍が38度線を越えて侵攻します(朝鮮戦争)。
    南側は、戦争準備がまったく出来ていません。
    韓国軍は退却を繰り返し、三日後の6月28日にはソウルが陥落します。

    国連安全保障理事会は、北朝鮮の侵略に対し、武力制裁を決議します。
    しかし、アメリカ中心の国連軍は敗退を続け、8月には南端のプサンに追い詰められます。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    北朝鮮が侵略を開始した6月25日は、日曜日の早朝でした。 翌26日(月)の株式市場は、185万株の大商いでした。この時代の平均出来高は、約100万株です。

    戦争は、買いか?売りか?
    両方の説があり、誰もよく分かりません。

    この日の終値は、0.81円高の92.75円で、あまり値動きはありません。

    ソウルが占領され、韓国側の圧倒的な不利が伝えられると、株価は下がりだします。
    日本の隣に、共産国家が誕生する可能性がでてきたのです。

    1950年7月6日、株価は85.25円となり、最安値を更新します。

    7月中旬、国連軍の武力制裁が決議されると、株価は出来高を増やし暴騰しだします。 7月17日の出来高は、空前の944万株、株価は109.34円で5.52円高でした。

    アメリカが参戦する以上、簡単に負けるわけがありません。戦争は、長引きそうです。

    日本の繊維産業、鉄鋼産業に戦争特需がもたらされます。デフレで山積みされた在庫が、戦争景気で換金できるのです。

    この戦争は、買い!
    市場のコンセンサスが成立します。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    1950年9月15日、マッカーサーは、ソウルの西の仁川に奇襲上陸し、北朝鮮軍の背後を突きます。
    この作戦は、戦局を逆転させ、北朝鮮軍は敗走し始めます。

    38度線の北に戦線は移動しますが、国連軍は追撃を止めません。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    9月15日の株価は、0.87円高の110.35円、出来高は171万株でした。

    ◆◆国連軍の勝利のニュースには、株価は反応しません。◆◆

    ◆◆ 国連軍が勝利して戦争が終るのが、◆◆
    ◆◆日本経済にとってマイナスと考えたのでしょうか?◆◆
    ◆◆この続きは、明日発表します◆◆

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    (2001/9/8)
    朝鮮戦争と株価の動き
    (後編)

    北朝鮮軍は、アメリカに勝てるはずがありません。米軍は、9月末ソウルを奪回し、10月19日には、北朝鮮の首都ピョンヤンが陥落します。 このまま推移したら、西側による統一朝鮮が建国されたでしょう。

    しかし、ここで大事件が起こります。
    1950年10月末、中国の人民義勇軍が国境を越えて参戦します。

    中国は、親米国家と国境を接することに危機感を抱いたのでしょう。 人海戦術の中国軍の参戦で、戦局は再び逆転します。

    1951年1月初め、中国、北朝鮮連合軍は、ソウルを再び占領します。 米軍も体制を建て直し、3月14日ソウルを再奪還します。

    マッカーサーは、中国本土に戦争を拡大しようとします。
    1951年4月11日ソ連との戦争を恐れたトルーマン大統領はマッカーサーを解任します。

    その後、38度線をはさんだ膠着状態となります。 両軍のにらみ合いが続き、ようやく停戦を模索する動きが活発となります。

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    10月19日、ピョンヤンが陥落した日の株価は、0.19円高の107.44円で、ほとんど反応しません。 そして、中国が参戦すると、株価はわずかに上がりだします。

    さすがに、中国義勇軍が、ソウルに迫った12月21日には、株価は99.49円と100円を割り込みます。
    米軍が体制を立て直すと、株価は値上がりします。
    米軍がソウルを再奪還した頃は、株価は132.5円にまで上昇します。

    戦闘は、下火になり、3月19日に戦略物資の日本からの買い付け停止が発表されます。
    この発表を受けて、株価は一時的に下落します。

    4月11日のマッカーサー解任の翌日の株価は、2.67円も下落して119.4円となります。
    次の日も値下がりしますが、この日の株価が底でした。

    株価は、戦争が終結したにもかかわらず、この後長期にわたり暴騰を続けたのです。

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    朝鮮戦争で共産国家の脅威を確認してから、アメリカも日本を西側陣営として早く独立させたいと考えるようになります。

    1951年9月8日、サンフランシスコ講和条約が締結され、翌年4月28日発効します。
    日本の戦後処理にめどがつき、独立が達成されたのです。

    朝鮮戦争の休戦協定がようやく成立したのは、1953年7月27日のことでした。

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    サンフランシスコ講和条約関係のニュースは、株式市場に好感をもって迎えられます。
    9月8日の株価は145.83円でした。5ヶ月前のマッカーサー解任の時と比べると、22%も上昇します。

    1952年は、戦争特需がなくなったにもかかわらず、株価が暴騰した年です。

    資金不足とデフレの強烈な記憶から、株価は不当な安値に放置されていました。
    当時の株式の平均利回りは、11%を超えていました。
    この年、ゆがんだ株価の見直しが行われたのでしょう。

    1951年末の166.06円から、1952年末には362.64円になります。
    何と、たった一年で2.18倍の値上がりです。
    日本経済が、この戦争を契機に復興したのは、間違いありません。

    ◆◆さて、この歴史の再現(デフレ後の暴騰)が何時来るか?◆◆
    ◆◆ ネットの有名評論家の方は、今が買いどきという人が多いようです。◆◆
    ◆◆ しかし、私は、まだ一年以上先だと思っていますが・・・◆◆

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    (2000/9/21)
    スターリン・ショック

    昭和25年6月に始まった朝鮮戦争は、日本に特需をもたらしました。太平洋戦争で荒廃した産業は、完全に復興し、輸出も増加します。株価も昭和28年の2月まで絶好調でした。

    そんな状況下で、昭和28年3月4日、ソ連が、「スターリン首相の重態」を発表します。(翌日 脳内出血で死亡 73歳)

    スターリンは、反対する者を全員収容所に入れて粛清した、好戦的な史上最強の独裁者。一方、次の首相のマレンコフにしても、葬儀委員長を務めたフルシチョフにしても、彼と比べれば遥かに平和的です。世界は緊張緩和に向かうことが、簡単に予測できました。

    株価は、平和を好感して値上がりしてもよさそうですが、現実はまったく違っていたのです。

    まず、ニューヨークで平和になると儲からない、軍需株が暴落します。そして、3月5日 東京市場の平均株価は全面安で、378円から340円に暴落します。たった1日で何と10%も下げたのです。(スターリン・ショック) この記録は、1987年10月20日のブラック・マンデーまで破られませんでした。

    昭和27年末の株価の暴騰がバブルの状態で、その反落の引き金になったという面もあると思います。

    ◆◆不謹慎な話ですが、今の世界の指導者の中で亡くなった場合◆◆
    ◆◆東京市場に最も影響を与える人は誰でしょうか?◆◆

    ◆◆ 私は、北朝鮮の金正日さんだと思います。◆◆
    ◆◆難民問題、経済援助、大変そうですね。◆◆

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    (2001/5/6)
    「銀行よ、さようなら」時代

    昔は、「リスク資産である株式の利回りは、定期預金より高いのが当然」、とみなされていました。 技術革新が進み、経済成長が長期にわたって続くと、株式の値上がりが継続するようになります。

    1958年頃、株式の先高期待から、配当利回りが預金金利より低くなります。
    この現象は、利回り革命と言われています。

    1960年には、東証修正株価は、1000円をこします。

    そして、投資信託が、急成長を開始します。

    特に,1961年1月から売りだされた公社債投信は、人気がありました。

    日興證券静岡支店長が生み出した、投資信託のキャッチコピーは、流行語になります。

    銀行よ、さようなら。証券よ、こんにちは。

    銀行の預金を解約して、証券会社の投資信託を購入する人が増加します。
    1961年、株式投信と公社債投信の合計残高は、1兆円を突破します。

    投資信託の膨大な資金が株式市場に流れ込み、株価は1961年7月、1829.74円にまで達します。

    池の中を鯨が泳いでいる
    という表現が、当時の状況をよく表しています。

    当時、「投資信託の元本が保証されていない」と知っていた人は、37%に過ぎませんでした。

    また安全と思われていた公社債投信にも、問題がありました。
    公社債の流通市場が、未成熟だったのです。

    投資信託会社は、親会社の証券会社から独立していました。公社債投信の解約に対しては、親会社が、損を覚悟で公社債を買い取るしか道はなかったのです。

    株価が下がり始めると、いったいどうなるか?

    ◆◆7月、日銀が金融引締めを実施します。◆◆
    ◆◆流れが逆転します。◆◆

    ◆◆ それから4年後、証券業界は、戦後最大の危機を迎えることになるのです。◆◆
    ◆◆ この続きは、明日発表します。◆◆

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    (2001/5/7)
    証券恐慌(前編)

    1962年から1964年前半までは、企業の業績は悪いものの、経済成長率は10%を超えています。
    証券業界だけが、深刻な苦境に立っていたのです。

    株が下がり、投資信託は、額面割れになります。投信人気が離散すると、解約が殺到します。現金を捻出するために、投信会社は、株を換金せざるを得ません。

    池で鯨が苦しむと、ますます株価が下がる。悪循環が続きます。

    投信にとって、増資(当時は額面増資)も悩みの種でした。持ち株の増資の払込資金を捻出するために、手持ち株を売らなければなりません。

    証券会社は、解約された投信の公社債を採算割れで引き取ったことから、資金繰りも悪化します。市中銀行は、公社債担保融資を行い、証券会社を助けます。出来高も、1億株を割り、証券会社の赤字が膨らみます。

    1963年11月、ケネディ大統領が暗殺されると、株価は暴落します。
    年末には、マジノラインといわれた、東証ダウ1200円割れが現実味をおびてきます。

    1964年1月10日、株式買い上げ機関「日本共同証券」の設立構想が発表されます。

    大蔵省の加治木財務官、中山興銀頭取、宇佐美三菱銀行頭取、岩佐富士銀行頭取が極秘に会談して決定したと言われています。 銀行主導で生まれたこの機関は、株式市場から株を買い上げて、市場の崩壊を防ごうとしたのです。

    市場はこれを歓迎して値上がりしますが、3月6日の第一回の買い上げ規模が20億円だと分かると、失望売りが出ます。

    その後も、株価が1200円を割りそうになると、日本共同証券は、買い出動します。
    しかし、株価回復の道筋は見えてきません。

    東京オリンピックも終わり、年末になると実体経済も悪化して、サンウェーブ、日本特殊鋼が倒産します。
    さらなる株価対策が必要なことは、誰の目からも明らかでした。

    1965年1月5日、新買い上げ機関の設立構想が発表されます。

    同月12日、証券会社が中心となって、日本証券保有組合が設立されます。日銀の資金で投信や証券会社の持ち株を直接買い上げることが決まります。

    1月21日、同組合は投信保有株の一律10%を買い上げます。
    そして、翌月、同組合は証券会社から500億円分の株式を買い上げます。

    同じく2月、増資の禁止措置もとられます。

    ◆◆「やれやれ、これで一安心」と誰もが思いました。◆◆
    ◆◆ ところが、最大のヤマ場が、この3ヵ月後に訪れます。◆◆
    ◆◆ この続きは、明日発表します。◆◆

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    (2001/5/8)
    証券恐慌(後編)

    1964年9月期の山一証券の赤字額は34億円でした。ところが、実際の赤字は、300億円で、深刻な経営危機に直面していたのです。大手新聞各社も この事実を知っていましたが、報道管制によって記事になりませんでした。

    1965年5月21日、報道協定を結んでいない西日本新聞が、朝刊で山一證券の危機をスクープします。

    直ぐに全国紙も、山一証券の信用不安を記事にします。

    22日から、山一証券の各支店には顧客が殺到し、預かり資産の引出しと投信の解約のために、長蛇の列をつくります。 28日、東証ダウは、1089円まで暴落します。山一証券は、午後の資金繰りがつきません・・・

    同日、田中角栄蔵相は、関係者を一喝。
    日銀法25条を発動して、無担保、無制限の特別融資を山一証券に実施します。 このまま放置したら、
    信用不安が銀行へ波及して、外国の短期資金が逃避する、と見抜き決断したのです。

    現実の特融は上限が決められ、市中銀行が少し担保を出したようです。
    しかし、田中蔵相のアイディアで「無担保、無制限の特別融資」と発表されたことが、絶大な効力を発揮したのです。 29日(土)は、半日の立会いですが、相場は反発して1109円となります。

    共同証券と証券保有組合は、2年間で4236億円購入しました。これは、株式時価総額(6兆6000億円)の6.4%に相当します。 株価は下支えされますが、上昇しません。

    7月12日、東証ダウは、1020円49銭の最安値をつけます。

    「ダウの1000円割れは必至」と多くの経済評論家が、
    過激な予測を発表します。

    しかし、この瞬間が大底だったのです。

    7月27日、総合景気対策が発表されます。
    その中で、戦後初めて赤字国債を発行して、景気浮揚を行うことが明言されます。
    翌日から株価のV字型の回復が始まります。

    そして、11月、いざなぎ景気が始まり、日本は繁栄を取り戻します。

    その後、共同証券と証券保有組合は、購入した株式を放出して、市場の疫病神となります。また、影響を緩和するため、かなりの株式が、関係の深い法人にはめ込まれます。 日本の株式市場の特徴である株式持合いは、このときに進んだのです。

    共同証券と証券保有組合は、株価の上昇に助けられ、黒字で解散することが出来ました。

    ◆◆また、山一證券は、その後立ち直り、この時の日銀特融はすべて返済します。◆◆

    ◆◆ ところで、せっかく調べたのに、◆◆
    ◆◆平成の株式買い上げ機関構想は、延期されたのですね。◆◆
    ◆◆昔の人の仕事振りと比較すると、感じるものがありますね。◆◆

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    (2000/10/16)
    いざなぎ景気と3C時代

    神武、岩戸と、好景気には何故か神話に、ちなんだ命名がなされます。

    1965年11月から70年7月まで、なんと57ヶ月も続いたのが「いざなぎ景気」です。佐藤栄作総理の長期政権のもとで、10%以上のGNP(国民総生産)の高度成長が維持されます。1968年、アメリカがベトナムで苦戦するのにたいし、日本は世界第二位の経済大国になります。

    時代を象徴する3Cといわれる夢の耐久消費財が生まれ、庶民が先を競って購入しようとします。カー(自動車)、クーラー、カラーテレビです。当時は、白黒テレビしかなく、カラーテレビが発売されると、皆が豊かな色彩に魅了されました。クーラーは、冷房専門でデパートや床屋にしかなく、実際に一般家庭に普及したのは1970年頃だったと思います。

    家電業界、自動車業界も昭和元禄ともいわれたこの時代を謳歌します。経済優先の風潮から公害問題が深刻になり、環境庁が設置されました。 1970年の夏「日本万国博覧会」が大阪で開催中に、いざなぎ景気は終了します。

    日経平均株価のピークは、1970年4月の2534円でした。景気終了の3ヶ月前で、不景気の到来を、株価の下落は予見していた、とも言われています。

    ◆◆さて、2〜3年後好景気が訪れると仮定したら、庶民の夢の商品は何でしょうか?◆◆
    ◆◆ 次世代携帯電話、デジタルテレビ、ノートパソコンが有力ですね◆◆

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    (2000/10/14)
    イスラム革命と
    第二次石油危機

    イランのパーレビ国王は、アメリカから高額の最新鋭戦闘機を購入する一方で、イスラム女性が身につける伝統のベール(チャドル)を自由化して、近代国家を早急に実現しようとします。

    イスラム教シーア派の大聖人、ホメニイ師は亡命先のフランスから帰国、「パーレビの後ろ盾のアメリカは、大悪魔だ」と主張し、熱狂的歓迎を受けます。1979年パーレビ国王の独裁政権は倒れ、イスラム革命が成立、イランはイスラム原理主義国家となります。

    ホメイニ師に共鳴した学生達は、在テヘラン米大使館を長期間占拠して、52人の大使館員を人質にします。アメリカとの関係は最悪の状態になります。

    さて、この頃、世界の石油需要は増加してきており、消費国の国家備蓄もほとんどありませんでした。(日本は7日分)こんな状況でイランの石油輸出が、政治的混乱から止まったのです。

    OPECは、この絶好のタイミングを逃さず、
    石油価格を3ヶ月毎に値上げする方針を発表します。

    1979年6月の石油価格は18ドル、11月24ドル、1980年1月26ドル、4月28ドル、8月にはついに30ドルを突破します。(第二次石油危機

    日本は、省エネ対策が進んでおり、燃費効率の良い小型車等をアメリカに輸出して、比較的早く危機から脱出できたといわれています。

    ◆◆さて、最近のイスラエルとパレスチナの紛争、目が離せませんね。◆◆
    ◆◆ 今回起きないとしても、石油埋蔵量は減る一方です。◆◆
    ◆◆ 第3次も第4次も、いつかは必ず起こります。◆◆

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    (2001/2/19)
    プラザ合意(前編)

    レーガン政権の為替政策は、「強いアメリカ、強いドル」でした。高金利に魅力を感じた、日本の生保などは、アメリカの国債を喜んで購入します。

    実力以上のドル高は、いわゆる「双子の赤字」を発生させます。アメリカの財政赤字は、2078億ドル(83年度)、貿易赤字は1125億ドル(84年度)に達します。

    アメリカの産業は、空洞化します。
    アメリカのドル高政策の行き詰まりは、明らかでした。

    しかし、金利は、下げられません。アメリカ国債の人気がなくなり、外国が購入しなくなると、予算に支障が生じてしまうのです。ドルが、暴落するかもしれません。

    ベーカー大統領主席補佐官は、思案を重ねます。
    「金利を下げずに、ドルを安くする方法はないだろうか?」

    一方日本は、260円(85年2月)を越えた円安により、対米黒字を増加させます。自動車、電気製品など多くの分野で、日米貿易摩擦は激化します。

    市場を開放しろ。アメリカ製品を買え。輸出の自主規制をしろ・・・・

    大蔵大臣・竹下登と財務官・大場智満は、個別分野でアメリカの難題にこたえるより、
    為替による自然な黒字の削減を望むようになります。

    こうした、状況下で、1985年9月22日、ニューヨークのプラザホテルで先進5カ国蔵相・中央銀行総裁会議(G5)が開かれます。 アメリカ、日本、ドイツ、イギリス、フランスの蔵相と中央銀行総裁、合計10人が為替問題について話し合ったのです。

    当時のG5は、秘密会議でした。

    竹下は、盟友の金丸にもG5のことは、隠していました。
    竹下以外の政治家で知っていたのは、中曽根首相だけです。

    大蔵省でも、大場財務官のほか4〜5人しか知らなかったのです。日銀総裁・澄田智は、出発の少し前に会議の予定を知らされたようです。

    ◆◆そして、為替関係者に、まったく漏れることなく、◆◆
    ◆◆プラザ合意は発表されます。◆◆
    ◆◆このとき、初めてG5の存在は、公になったのです。◆◆

    ◆◆ 為替相場に衝撃が走ります・・・◆◆
    ◆◆ この続きは、明日発表します。◆◆

    (参考文献)日米通貨交渉2000日  野口 均 著   日本経済新聞社

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    (2001/2/20)
    プラザ合意(後編)

    プラザ会議で話し合われた内容は、次のとおりです。

    1. 5カ国が為替相場に協調介入して、ドル、円、マルクの水準訂正を行う。
    2. 介入期間は6週間、介入規模は180億ドル。日本、アメリカ、ヨーロッパが3:3:4の割合で受け持つ。

    3. 各国は、自国だけでなく、24時間どの国の相場にも介入してもよい。
    4. ドルの下落目標は、少なくとも10%。(竹下蔵相は、「日本は10〜20%までの円高なら受け入れられる」と発言している。)

    無論、9月23日の発表には、このような具体的な内容はなく、
    「先進5カ国は、協調して為替レートを円高、マルク高、ドル安に進めることに合意した。」
    という意味の抽象的なものでした。

    発表前の円相場は、242円でした。
    最初に開いた23日のニュージーランドでは、なんと8円高の234円となります。
    しかし、こんな水準では、足りません。

    日銀や大蔵省は、必死の努力でドルを売って、目標の200円を実現しようとします。口先介入も盛んに行います。

    しかし、金利を変更せず、介入だけで為替を動かすのは、難しいものです。 215円の壁が日銀に立ちはだかります。いくら介入しても、円高が進まなくなります。

    日銀が、切り札を出します。

    1985年10月25日、日銀は第二の公定歩合といわれた、短期金利の高め誘導を行います。
    手形レート(2ヶ月もの)は、0.5625%上昇して7.125%に、コールレートもその分上昇します。

    「金利を上げない約束違反だ」とアメリカから抗議がきますが、これを、契機に円高は一気に進みます。 そして、12月18日、短期金利の高め誘導を解除した時には、200円台の目標を達成します。

    アメリカ国債を保有していた生保などは、大損害を受けます。もちろん、輸出産業も打撃を受けます。

    しかし、為替の調整という公正な競争で、残るべき企業が残ったという点は、評価できます。
    不自然な規制によって輸出を減らすより、好ましいのです。

    ◆◆竹下登さんと大蔵省の優れた業績の一つだと、私は思います。◆◆
    ◆◆ 昔の日本は、世界最強の経済大国だったのですね。◆◆

    ◆◆ さて、この歴史は再現するでしょうか?◆◆
    ◆◆せいぜい、フランスの席かな?◆◆

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