■歴史の玉手箱■

---目次---
  • カルタゴと日本(前編)
  • 最古の先端技術、絹の話(前編)
  • カルタゴと日本(中編)
  • 最古の先端技術、絹の話(中編)
  • カルタゴと日本(後編)
  • 最古の先端技術、絹の話(後編)
  • 幻の香料物語(前編)
  • 幻の香料物語(中編)
  • 幻の香料物語(後編)

  • (2000/1/15)
    カルタゴと日本(前編)

    カルタゴは、フェニキア人が建国した海洋国家で、現在のアフリカ大陸チュニジアに位置しています。

    カルタゴは、世界一の造船技術を持ち、スペイン、シチリア島などの海外領土を支配していました。

    紀元前3世紀、地中海貿易により富を蓄え、
    ローマ帝国と並ぶ強国となります。

    BC264年、両者の中間にあるシシリー島で紛争がおこります。そして、これを契機にカルタゴとローマは、世界の覇権を賭けて激突します。この戦いは、23年間の中断をはさんで63年間続きます。(第一次ポエニ戦争、第二次ポエニ戦争

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    1867年、島国日本は、長い眠りから覚め、明治維新により近代国家への道を目指します。西洋文明を積極的に取り入れ、富国強兵に邁進します。 日清・日露の戦争に勝ち、朝鮮、台湾、南樺太と領土を拡張します。

    強国となった日本は、戦艦大和を建造して、世界有数の海軍を持ち、
    太平洋をはさみ、超大国アメリカと対峙します。

    1941年12月、日本連合艦隊は、ハワイの真珠湾の奇襲に成功します。太平洋戦争が始まります。

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    カルタゴの英雄ハンニバルは、象36頭と兵士5万人を率いて、スペインを出発します。象を連れて、アルプス山脈越えに成功、ローマの本拠地イタリア半島を奇襲します。 ハンニバルは、イタリアに、なんと15年も踏みとどまり、ローマを一時追い詰めます。

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    「マレーの虎」山下奉文中将は、マレー半島を南下、シンガポールに侵攻します。インド兵への離反策が成功し、1942年2月15日シンガポールは陥落、イギリス軍は降伏します。

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    カルタゴは、地力に勝るローマに対して次第に劣勢になります。ついに、名将スキピオ率いるローマ軍が、カルタゴの本拠地に進軍します。 カルタゴは、イタリアで善戦していたハンニバルを帰国させ、本土決戦に賭けます。BC202年、天下分け目の戦い(ザマの戦い)が行われます。 カルタゴの完膚なき負け戦でした。

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    アメリカは、生産力、技術力で日本に勝っていました。ミッドウェー海戦を境に、戦局は逆転します。ガダルカナル、硫黄島、沖縄。日本は、敗退を続けます。 本土空襲が激しくなり、広島と長崎に原爆が投下されます。日本の完膚なき負け戦でした。

    ◆◆どうです?よく似てるでしょう。◆◆
    ◆◆これから先は、もっとソックリなのです。◆◆
    ◆◆この続きは、明日発表します。◆◆

    (参考文献)「ある通商国家の興亡―カルタゴの遺書」 森本哲郎 PHP研究所

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    (2000/1/16)
    カルタゴと日本(中編)

    カルタゴは、ローマに無条件降伏します。

    全ての海外領土は、放棄され、軍船、象もローマに引き渡されます。軍隊は、自衛のためのものだけが許されました。そして、自衛のためでも戦争する場合、ローマの許可が要ることになったのです。(この許可の項目が、後に大問題となります)

    そして、50年賦で1万タラントの賠償金をローマに支払うことが決まります。

    ともかく、カルタゴの町は、無事に残りました。100人会は、貴族の世襲制でしたが、戦後まもなく代議員が選挙で選ばれるようになります。

    カルタゴは、民主主義の国家に生まれ変わります。

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    「忍び難きを忍び、耐え難きを耐え・・・」玉音放送が流れ、日本は無条件降伏します。

    日本列島以外の領土は、返還されます。アメリカが決めた平和憲法で戦争が放棄されます。(後に自衛隊が誕生します。)国土は焼け野原、アジア諸国には賠償金の支払いが必要でした。 ともかく、本土決戦だけは避けられました。

    日本は、天皇主権の国家から、主権在民の民主主義国家に生まれ変わります。

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    カルタゴ人(フェニキア人)は、ユダヤ人やアラビア商人と同じセム語族で、最も商才があるといわれている種族です。

    軍事国家への野心を棄てたカルタゴ人は、ますます貿易や商売に熱中するようになります。ローマ人は、楽しむために働きましたが、カルタゴ人は働くこと自体が人生の目的でした。奇跡の経済復興が実現します。

    戦勝国ローマは、休む間もなく、マケドニアやシリアと戦わなければなりません。 軍備費の要らないカルタゴは、次第にローマに匹敵する経済大国に、のしあがります。

    BC191年ローマは、シリアを打ち破ります。

    無敵の軍事大国ローマにとっての脅威は、経済大国カルタゴに移っていくのです。

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    日本人には、勤勉さと物作りの才能がありました。

    焼け原から立ち上がった日本人は、ひたすら一生懸命働くことで豊かになろうとしました。エコノミックアニマルと日本人は、陰口を叩かれます。奇跡の経済復興が実現します。

    アメリカの核の傘に入り、軍事費もいりません。戦勝国アメリカは、ソ連との冷戦を戦わなくてはなりませんでした。

    10%を超す高度経済成長が続きます。日本は、世界第二位の経済大国になります。

    ソ連が崩壊し、日米の経済摩擦が激化します。

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    BC187年、カルタゴは、50年賦と決められた賠償金を一括払いしたいと申し出ます。いくら叩いても不死鳥のように蘇る、カルタゴ人の経済力に、ローマ人は、羨望と恐怖心を抱きます。ポエニ戦争の悪夢がふと蘇ります。

    ローマの元老院の指導者カトーが叫びます。

    カルタゴは、滅ぼさなければならない!(デレンダ・エスタ・カルタゴ)

    ◆◆割れんばかりの賛同の拍手が、議場に沸き起こります。◆◆
    ◆◆明日は、完結編です。◆◆

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    (2000/1/17)
    カルタゴと日本(後編)

    経済大国カルタゴの最大の悩みは、隣国のヌミディアでした。ヌミディアは、騎馬兵団で有名な、戦争に強い国です。自衛力しか持たないカルタゴを侮り、その領土を侵犯します。

    カルタゴは、ローマに調停を頼みますが、黒幕のローマはもちろん取り合いません。 ついに、カルタゴとヌミディアの間で戦争が起こり、平和の国カルタゴは、敗北します。

    ローマの事前許可のない戦争開始は、条約違反でした。

    ローマは、カルタゴに対して、突然宣戦布告をします。

    驚いたのは、カルタゴです。ローマの許しを得ようと、300人の貴族の子供を人質に差し出します。 しかし、8万人の世界最強のローマ兵が、上陸し、カルタゴに進軍します。

    カルタゴの使者が、「どうすれば、許していただけるのですか?」とローマの司令官に聞きます。

    「全ての武器を差し出せ。」司令官は、答えます。

    カルタゴは、20万人分の鎧、投げやり、投げ矢、2000の石弓を司令官に差し出します。

    すると、司令官は、最後の要求を使者に言い渡します。

    我々は、カルタゴの街を根こそぎ破壊することを決めた。
    カルタゴ人には、今の街より10マイル内陸部に
    新しい居住地帯を造ることを許可しよう。

    使者からローマの意向を聞いた20万人のカルタゴ人は、驚愕して、嘆き悲しみ、最後に激怒します。

    「こんなひどい仕打ちがあろうか。街を破壊するだと。
    内陸部に引っ込めだと。どうせ死ぬなら戦って死のう!」

    カルタゴ人は、丸腰で戦う覚悟を決めます。返事の猶予期間の30日間、密かに戦争準備がすすめられます。
    武器職人は、連日徹夜で武器を作ります。
    若い女性は、長い髪を元から切って石弓の弦が作られます。

    こうして、始まったのが、第三次ポエニ戦争でした。
    (戦争というより、ローマによるカルタゴの民族浄化です。)

    カルタゴは、ここで奇跡的な粘りを見せます。なんと丸腰で三年間ローマの猛攻を食い止めたのです。

    しかし、戦闘と飢えと疫病で、20万人のカルタゴ市民は、10万人に減ります。

    そして、ついに、ローマ兵は城壁を破り、街へ進入します。
    女、子供までがレンガを投げて抵抗しますが、5万人が虐殺されます。
    ビュルサの砦に逃げ込んだ5万人のカルタゴ人は、オリーブの枝を掲げて投降します。
    彼らは、一部が処刑され、残りは奴隷として売られます。

    カルタゴの街は、十数日燃えつづけ、灰は1メートル積もります。カルタゴの復活を恐れたローマ人は、この地に塩を撒き不毛の土地にします。
    700年続いた経済大国カルタゴと世界の富を独占したカルタゴ人は、BC146年こうして滅んだのです。

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    2000年以上の時を越えて、カルタゴ人は日本人に警告しているように私には思えます。

    警告の内容は、人により異なると思います。

    ◆◆核兵器保有国、アメリカ、中国との付き合い方。◆◆
    ◆◆反日感情の高いアジア諸国との外交。◆◆
    ◆◆非武装中立の是非。貿易摩擦問題・・・◆◆

    ◆◆日本人は、カルタゴの遺書から学ばなければなりません。◆◆
    ◆◆明日は出張で休みます◆◆

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    (2000/1/20)
    幻の香料物語(前編)

    香料(スパイス)が西洋で人気がでてきたのは、13世紀の頃だといわれています。キリスト教の影響で、肉類といえば、羊しか食べなかったのが、牛肉も好むようになったのと関係があるようです。

    ビフテキは、とにかく、美味い。肉の消費も増える一方です。

    ところが、昔は冷蔵庫がありません。時間のたった肉は臭くてまずい。

    つまり、香料の役割は「調味料」だけでありません。
    「防腐剤」と「消臭剤」の機能を持った、肉食民族の必需品だったのです。

    そして、香料は西洋で絶対自給できない輸入品でした。

    香料の販売を一手に引き受けていたのが、ベネチアの商人です。ベネチア商人は、地中海貿易でエジプトのアレキサンドリア港から購入していました。

    ベネチアは、香料貿易で富み栄えます。アレキサンドリアに香料を運んだのは、アラビア商人でした。

    香料の中でも、もっとも高級なのが、クローブ(丁字)です。
    クローブだけは、アラビア商人の言い値で買うしかありません。

    アラビア商人は、商売の天才です。日本人が、彼らの店で買い物をするとします。品物には、値札が下がっていません。値切り交渉には時間がかかります。お茶の休憩まであるのです。何度も帰るそぶりを見せて、値引きを引き出します。
    アラビア商人いわく、「この値段は、安すぎます。他の人には、絶対に黙っていてください。」

    日本人は、「最初の半値だ。しめしめ」と喜びます。

    ところが、値切ったはずのその値段は、なんと定価の二倍なのです。

    西洋人が、いかにクローブの取引で吹っかけられたか、想像できます。

    希少価値のあるクローブの値段は、なんと同じ重さの金より高かったのです。

    その原産地は、何世紀にも渡り西洋人にとって謎でした。
    アラビア商人は、何処からクローブを持ってくるのでしょうか?

    1453年オスマントルコがコンスタンティノープルを陥落させ、東ローマ帝国は滅亡します。香料の地中海ルートにオスマントルコが介入しだしたのです。

    ◆◆今は、単なる安い調味料にすぎないスパイスが、◆◆
    ◆◆世界史の多くのドラマを生み出す、引きがねになったのです。◆◆
    ◆◆信じられませんね。◆◆
    ◆◆この続きは、明日発表します。◆◆

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    (2000/1/21)
    幻の香料物語(中編)

    中世のヨーロッパにとって、イスラム世界は軍事的に最大の脅威でした。14世紀までは、文化的にも西洋はイスラム圏に圧倒されていました。

    ポルトガルのエンリケ王子がアフリカ回り航路の発見に情熱を傾けた動機は、経済的なものだけではありません。

    プレステ・ジョアンというキリスト教の国が何処か遠くに存在する、との伝説があったのです。 政治的には、この国の発見が大きな目標でした。プレステ・ジョアンと協力してイスラム圏を挟み撃ちにするのが、西洋の夢だったのです。

    ディアスは、アフリカ大陸南端の喜望峰を発見します。
    1498年5月20日、バスコ・ダ・ガマは、ついにインドのイスラム教徒の交易都市カクレーに到着します。

    ガマは、この地の市場で、衝撃的な発見をします。

    当時ベネチアでは、1キンダル(約50kg)の香料の値段が80ドゥカードでした。
    驚くべきことに、カクレーでは、たったの3ドゥカードで取引されていたのです。

    バスコ・ダ・ガマは、ついに世界経済の流れをかえる航路を発見したのです。

    なお、ガマは、インドのヒンドゥー教徒を伝説の国プレステ・ジョアンと誤認しています。しかし、そんなことは、もうどうでも良いのです。次々と香料を求めてポルトガルの大船団がインドに到着します。

    ガマのインド航路の成功は、世界中の商人に影響を与えます。

    ポルトガルの港リスボアには、ドイツのフッガーをはじめヨーロッパ中の商人達が香料の買い付けに訪れるようになります。 ポルトガル人は、仕入れ値の10倍以上の40ドゥカードで彼らに販売します。ところが、彼らにとっては今までの半値、大喜びで本国に持ち帰ったのです。

    一方、イスラム圏との地中海交易を独占していたベネチアは、没落していきます。
    不当利得により何百年間も繁栄していたアラビア商人達も、深刻な打撃を受けます。

    ある日、喜望峰に向かった船団が、間違えて南アメリカ大陸に漂着します。これがブラジルの発見の真相です。

    ◆◆香料を求めたポルトガル人の旅は、まだ続きます。◆◆
    ◆◆ この続きは、明日発表します。◆◆

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    (2000/1/22)
    幻の香料物語(後編)

    ベネチアは、マムルーク朝のエジプトを動かし香料交易の利権を取り戻そうとします。1509年、エジプトを中心としたトルコ人、アラブ人との連合艦隊がポルトガルの武装船団と衝突します。エジプトは、この海戦に大敗北します。

    1510年ポルトガルは、インドのゴアを占領し、植民地にして香料交易の基地とします。
    イスラム化したインド商人が遥か東の海から、香料をインドに運んでいました。
    1511年、ポルトガルは、重要拠点マラッカを占領します。

    そして、ポルトガル人は、ついに香料の原産地、香料諸島にたどり着いたのです。ここでの値段は、安いと思われたカクレーの値段のさらに30分の1でした。 現地のスルタンは、香料の本当の価値に気づかず、ほとんど儲けていなかったのです。

    香料の原産地は、今のインドネシアでした。
    ジャワ島の東に点在するテルナテ(クローブ原産地)、テイドール、パンダ(ナツメグ原産地)などの小島からなる、香料諸島にしか自生していなかったのです。
    クローブは、常緑樹の花の蕾でした。

    ポルトガルは、テルナテ島に根拠地をおきます。住民は、カトリックに改宗させられます。

    その後、香料諸島を巡って、ヨーロッパ諸国の熾烈な争いが始まります。

    世界一周で名高いマゼランが、西回りでテイドール島にビクトリア号でやってきます。彼は、スペインの代表。両国は、香料を巡って争いますが、ゴア、マカオ、マラッカを抑えるポルトガルが勝利します。

    やがて、ポルトガルの国力が衰え、香料諸島の支配者はオランダに変わります。ナツメグは、バンダ島でしか栽培されていませんでした。 オランダは、原住民をすべて餓死で絶滅させます。オランダからの移民によりナツメグを作り、直接貿易による利益の独占を図ります。

    1770年、フランス人ピエ−ル・ポ−ブルが、ナツメグの苗を盗み出して、
    インド洋モ−リシャスに移植します。
    その後、世界各地に香料の木は、伝わり香料の価格は、暴落します。

    香料諸島は、消費地から遠すぎて競争力がなく、別の作物への転換を余儀なくされます。

    しかし、もし、バカ高値の香料がなかったら、「世界の歴史の歩み」は、
    何百年も遅れたかもしれません。

    ◆◆さて、現在における香料は、何でしょうか?◆◆
    ◆◆ 私は、マイクロソフトのウィンドウズだと思います。◆◆

    ◆◆ソフトは、無料と思っていた昔の日本人の感覚は正しい。◆◆
    ◆◆ ビルゲイツは、不当利得のアラビア商人。◆◆
    ◆◆いまに、暴落しますよ。◆◆

    (参考文献 「大航海時代」 増田義郎 世界の歴史13 講談社

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    (2000/1/23)
    最古の先端技術、絹の話(前編)

    私は、幼い頃初めて手にした絹の薄いハンカチの、真珠のような光沢と、しなやかな手触りを、いまだに覚えているような気がします。

    絹の魅力は、子供にもわかりやすい。

    蚕は、桑の葉しか食べません。他の植物の葉を食べさすと、直ぐに死んでしまいます。4回の脱皮をへて、1000〜1500mもの長さの糸を吐き繭を作り、サナギになります。 糸のネバネバは、熱湯につけると取れるそうです。繭の外側から糸を手繰ると、繭は、一本の長い糸になります。そして、数十の繭の糸を繰って、丈夫で細い1000m以上の一本の生糸が簡単にできるのです。

    糸の断面は、顕微鏡でみると透明な三角形で、天然のプリズムになっています。
    光の屈折が、あの魅惑的な虹の光沢を生むのです。

    中国人が、いつごろから養蚕で絹を作り出したのかは、定かではありません。気が遠くなるくらい古いのです。なんと紀元前5000年から紀元前2700年の間だと、推定されています。

    天の虫と書いて蚕。蚕は天から中国人に贈られた宝物です。

    養蚕による絹の製法は、何千年もの間、
    中国人が独占していた最古の先端技術だったのです。

    古代中国の都、長安(今の西安)からローマ帝国の中心地ローマまでの交易路がシルクロードです。
    中国からタリム盆地のオアシス都市を抜けて、パミール高原を越えて、西アジアを通りローマに達する数千kmの道。

    この道は、地中海の支配者、ローマ人が、「絹をどうしても手に入たい」との思いから出来た道なのです。絹もその価格が、黄金より高い時代がありました。

    中国人は、莫大な富を生み出すこの技術が、他国に漏れることのないように、細心の注意を払いました。 生糸の形では出さず、必ず付加価値をつけた絹織物の形で、輸出したのです。例えば、アラビアンナイトに出てくる女性の絹の服は、中国から買った絹織物を、いったん解いて再び織り上げたものです。

    ウィグル族の住むホータンという砂漠の中の街が中国にあります。ここは、2000年以上前から養蚕が盛んな、歴史のある絹の里です。

    ◆◆しかし、ここは絹の原産地では、ありません。◆◆
    ◆◆ 何故なら、こんな伝説があるのです。◆◆
    ◆◆この続きは、明日発表します。◆◆

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    (2000/1/24)
    最古の先端技術、絹の話(中編)

    西遊記で孫悟空をお供にして、天竺まで旅した三蔵法師をご存知ですね。彼には、玄奘という実在の人物のモデルがいます。 玄奘は、7世紀にホータンの絹にまつわる伝説を大唐西域記の中で書いています。

    昔、ホータンは貧しい街でした。若いホータンの王は、どうすれば街の人々が幸福になるかを真剣に考えます。

    シルクロードを東に進む隊商は、金やガラスを積んでいます。
    そして、西に向かう帰りの隊商は、すべて絹織物を運んでいます。

    その瞬間、彼は、ある計画を思いつきます。
    ホータンの王は、遥か東の絹の技術を持つ国の女性と婚約します。

    そして、王は彼女に、「絹の技術を教えてもらえないでしょうか?」と密かに頼みました。

    生糸や蚕を持ち出すことは、禁止されていました。密輸を行ったものは、死刑になるのです。生まれ育った国には、恩義もあります。 しかし、未来の夫や、将来、生まれてくる子供達の幸せも考えなければなりません。彼女は、誰にも相談できずに悩み迷います。

    花嫁の一行が、嫁入り道具を持って嫁ぐ日がきます。一行が街の関所につきます。 道具類は、すべて検査されます。しかし、まだ、笑顔があどけない花嫁をボディチェックする役人はいませんでした。

    しかし、彼女は、帽子の中に、数匹の蚕と桑の種を隠していたのです。

    ホータン中の木が調べられ、偶然生えていた、一本の桑の木が発見されます。蚕は無事に育ち、増えていきます。若い王妃は、蚕の育て方、繭から生糸を作る方法、絹の織り方すべてを、ホータンの街の人に教えます。 彼女は、優秀な技術者だったのです。

    長い年月が流れ、桑の木は、次々と植林され、ホータンは、王妃の故郷を凌ぐ絹の里となります。ホータンは、絹の富で見違えるように繁栄します。 王妃は、街中の人の尊敬を一身に集め、王からも生涯大事にされました。王子が生まれ、成長して豊かな王国を引き継ぎます。

    新王は、絹に関する、こんな規則を付け加えたかもしれません。
    「娘を絹の技術のない国に、嫁がせてはいけない」

    この種の話は、多くあります。

    タイシルクで有名なタイへ技術を伝えたのは、旅の僧です。
    彼は、杖の頭に数匹の蚕を忍ばせました。

    警戒の厳しかったアラビア半島への持ち出したのは、
    やはり女性で、高く結い上げた髪の中に隠したそうです。

    ◆◆技術を盗むのは、昔から大変だったのですね。◆◆
    ◆◆明日は、日本の絹の話です。◆◆

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    (2000/1/25)
    最古の先端技術、絹の話(後編)

    ポルトガル人は、1543年種子島に漂着して、鉄砲を伝えた後、日本と明の貿易を行います。

    明は、倭寇を警戒して日本との直接貿易を禁止していたからです。ポルトガル人は、福建省や広東省から日本に、絹織物と生糸を運びました。

    養蚕というと日本のお家芸と思う人もいますが、16世紀の日本には、大量の絹を生産する技術がなかったのです。(ただし、奈良時代に養蚕が行われた、との記録はあります。) 大名の奥方などの、きもの用に根強い需要があったのです。

    日本は、明での価格のなんと10倍の値段で、絹織物をポルトガル人から購入したのです。

    日本からの輸出品は、銀でした。戦国大名は、国力を増進するため領国内の銀山の開発に熱心でした。メキシコで銀が発見されるまで、日本は、世界一の銀の輸出国だったのです。 ポルトガルやオランダは、この交易で巨額の収益をあげます。

    このままではいけないと、絹を国産化する努力がなされます。
    養蚕の技術が本格的に発展したのは、江戸時代(18世紀の初め頃)です。

    生糸の輸入は、次第に激減します。オランダ人は、絹が売れなくなると、インドネシアのバタビィアから砂糖を日本に輸出します。

    そして、全国に広がった、この養蚕技術は、
    1859年鎖国の終了とともに大輪の花を咲かせます。

    欧米諸国は、日本の安く高品質の生糸を欲しがります。フランスの最新技術を導入した、富岡の官営製糸工場が建設されます。生糸は、この後、太平洋戦争が始まるまで、日本の最大の輸出品になり貴重な外貨を稼ぎました。

    もし、江戸時代の地道な絹作りの努力がなかったら、明治維新の近代化に支障がでたかもしれません。

    ◆◆さて、最近、日本の技術の海外移転が急速に進んでいます。◆◆
    ◆◆ 中国が何千年も絹の技術を独占したのを見習って、◆◆
    ◆◆少し出し惜しみしたら如何でしょう?◆◆

    ◆◆特に、一社で世界シェアを持つ、ハイテク独占企業の皆さん。◆◆
    ◆◆ 海外に工場を出しては、絶対にだめですよ。◆◆
    ◆◆優秀な技術者は、定年を遅らせ一生面倒を見ましょうね。◆◆

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