■経済史に学ぶ(江戸時代以前2)■

---目次---
  • 元禄小判と慶長小判
  • 株仲間の解散(前編)
  • 株仲間の解散(後編)
  • カリフォルニア・ゴールドラッシュ(前編)
  • カリフォルニア・ゴールドラッシュ(後編)

  • (2004/7/3)
    元禄小判と慶長小判

    1657年(明暦3年)、明暦の大火は、江戸の6割と江戸城を焼き尽くします。 江戸の町を再建するため、幕府は財政負担を強いられます。

    また、1664年(寛文4年)の金輸出解禁に伴い、金銀がオランダ貿易を通じて流出します。 金山の産出量も減少します。

    1680年、将軍職についた浪費家・徳川綱吉は、収入以上に散財します。 家康が残した江戸城御金蔵(200万両)が、ついに底をつきます。

    なんとか資金を捻出しなければなりません。

    綱吉は、37歳の勘定吟味役に対策を立案させます。
    知恵者、荻原重秀が1695年実行したのが、小判の改鋳です。

    これまで、流通していた慶長小判の金の含有率は、84〜87%。
    新しく造られた元禄小判は、56.4%。
    重さは、両小判とも17.5gで形も同じ大きさです。

    つまり、2枚の慶長小判から3枚の元禄小判を造ることが可能でした。
    うまく交換できれば、金貨流通量の50%の富が幕府に転がり込むのです。

    交換には、1%のプレミアムをつけました。
    すなわち、100枚の慶長小判を101枚の元禄小判と交換しようとしたのです。

    しかし、商人達は、騙されません。
    慶長小判は退蔵され、交換は進みませんでした。

    そこで、プレミアムは20%に引き上げられます。
    100枚の慶長小判は、120枚の元禄小判と交換することになったのです。

    これで、元禄小判の流通量は、一気に増加します。
    しかし、インフレが生じて、旗本・御家人の生活は苦しくなります。

    プレミアムをこれだけ支払っても、幕府は30%も儲かります。
    綱吉は、こうして30年間も散財を続けられたのです。

    新井白石によれば、幕府の改鋳差益は、500万両に達します。 白石は、荻原重秀を批判しています。彼が私腹を肥やしたのには幻滅しますが、私は経済政策として元禄の改鋳を評価しています。

    元禄時代は、バブル景気で活気づきます。たぶん、荻原重秀の貨幣改鋳が貢献しているのでしょう。

    さて、これからが、本当に書きたかったことです。

    古銭市場で、両小判の値段はどうなっているか?

    金がたくさん入っている慶長小判(美品)は、1枚200万円。
    金があまり入っていない元禄小判(美品)は、1枚260万円。

    悪貨は、良貨より、30%も高い。 参考

    いったい何故か?

    慶長小判に含まれる金の価格は、22000円(1450円×15g)。 元禄小判は、14500円(1450円×10g)。金の価値は、約1%程度です。

    元禄小判は、死蔵されることなく流通し、1717年(享保3年)流通停止となります。 商人達は、本来1.5両分の価値がある慶長小判の方を大切に秘蔵し、元禄小判は交換に回します。

    悪貨は、良貨を駆逐する。もっと正確に言えば、悪貨は流通して、良貨は死蔵されるのです。

    ◆◆現在、古銭市場に供給される量は、◆◆
    ◆◆慶長小判の方が元禄小判より多いと考えられます。◆◆

    ◆◆ 価格を決めるのは、需給バランスなのです。株といっしょですね。◆◆

    (参考にしたHP)日本銀行金融研究所 貨幣博物館 「貨幣の散歩道」

    (参考)元文の改鋳というのも通貨量増加策として、興味深いものです。

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    (2003/4/8)
    株仲間の解散(前編)

    株仲間といっても、喫茶掲示板の常連さんのことではありません。 江戸時代、幕府や藩などの公権力によって、営業権を独占できた同業者の集りのことです。

    株仲間は、カルテルによって、販売価格を維持して、利益を上げました。

    庇護の見返りに、幕府には、冥加金を納めました。株仲間は、幕府の財政にも貢献したのです。 株は、相続や抵当の対象となり、仲間の同意があれば、売却することも出来ました。

    売却金額は、その商いから上げられる利益の額で相場が決まりました。 江戸時代の法定金利は、18〜20%とかなり高かったようです。 株に1000両の値段がついた場合、その商売の年間利益は180〜200両と見なせるそうです。

    下廻船塩問屋株は2000〜4000両、蝋問屋・木綿問屋の株は1000両、札差が1000両といわれています。

    株式会社と株仲間は、似ています。

    株仲間の最高決定機関は、寄り合いです。寄り合いは、今日の株主総会に該当するでしょう。 そして、社長に当たるのが行事です。行事は、幕府との折衝などを行いました。

    我々が大好きな株の語源は、おそらく株仲間ですね。

    1836年(天保7年)、大飢饉が発生します。
    物価は騰貴して、社会不安が高まります。

    1837年、大塩平八郎が、門弟など数百名の心をつかみ、幕府に反乱を起こします。 反乱は直ぐに収まりますが、物価を安定させなければなりません。

    1841年、水野忠邦は、天保の改革の一環として、株仲間の解散を命じます。 株仲間が、不当に価格を吊り上げ、物価騰貴の原因になっている、と考えたのです。

    経済原理から考慮すると、合理的な政策のようにも思えます。

    ◆◆ところが、思いがけない結果を招くことになります。◆◆
    ◆◆ 明日は、休み。この続きは、4月10日発表します。◆◆

    (参考)「江戸の市場経済」岡崎 哲ニ著

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    (2003/4/10)
    株仲間の解散(後編)

    最大の株仲間の一つは、菱垣廻船問屋で、冥加金は年間10200両に達しました。

    この問屋は、大坂で日用品を千石積の和船(菱垣廻船)に積み込み、大消費地・江戸まで運ぶ海運業の株仲間です。

    水戸藩主・徳川斉彬は、菱垣廻船問屋を名指しで批判します。この助言を受ける形で、水野忠邦は、冥加金を上納しなくともよいと宣言します。 そのかわり、誰でも、自由に海運業への参加が可能になります。

    金持ちの素人が、菱垣廻船を建造して、船員を集めます。 船頭や熟練水夫は、高給で引き抜かれ、次第に増長してきます。 彼らは、「海難に遭って、積荷を捨てた」と言って、素人を騙し、不正に荷を売り捌くようになります。

    海運業は、儲からなくなり、やがて、物資の流通が滞るようになります。物価は、乱高下。

    これまで、株を担保として融通していた資金も止まります。
    担保価値の下落から、不良債権が発生して、経済は混乱します。

    材木を取引する株仲間の解散も、無残な結果を招きます。

    1846年(弘化3年)正月、江戸で大火が発生します。
    多くの素人、大工が大儲けのチャンスと見ます。
    「俺も河村瑞賢のようになってやる」というわけです。
    限られた材木に買いが殺到してます。

    売り惜しみにより、木材は長期間、市場から消え、家の建設に支障がでるようになります。幕府の統制は、全く利きません。

    ・・・秋風が吹くと・・・

    9月ついに木材バブルは、弾けます。
    堰きを切ったように材木は出回り、価格は暴落します。
    素人投機家は、大損失を被ります。

    1851年(嘉永4年)、問屋再興令が出されます。

    幕府は、株仲間を復活させ、物価騰貴を監視した方がよいと考えたようです。

    ただし、昔の株仲間とは、次のような相違点もあります。

    @株札は交付せず、冥加金を取らない。
    A新規加入を排除してはならない。

    問屋復活の効果は、劇的に現われます。

    1855年(安政2年)10月、地面の底を突き上げるような激震が江戸の街を襲います。
    この直下型大地震は、安政江戸地震と言われています。

    火事で、木材が不足しますが、問屋再興令により、買い手は限定されました。

    ◆◆12月上旬、価格はあまり上昇せずに、材木の流通は早くも増加し始め、◆◆
    ◆◆翌年1月には誰でも手に入るようになります。◆◆
    ◆◆こうして、幕府は、材木の安定供給に成功します◆◆

    ◆◆ 明日は、花見で休みます。◆◆

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    (2002/12/15)
    カリフォルニア・ゴールドラッシュ
    (前編)

    19世紀前半、カリフォルニアは、まだメキシコ領でした。 スイスからの移民ジョン・サッターは、メキシコ総督から広大な土地を借り受けて、サクレメント川とアメリカン川の合流地点にサッター砦を構築します。60人の私兵が雇われました。

    アメリカ人開拓者達は、彼のおかげで、インディアンの攻撃から身を守り、毛皮などの取り引きを行うことが出来ました。

    サッターの使用人にジェームズ・W・マーシャルという男がいました。

    1848年1月24日は、よい天気でした。
    マーシャルがアメリカン川の辺を歩いていると、浅瀬の川底が太陽光を受けてキラリと輝きます。

    何だろう?
    拾い上げると金色の粒

    彼は、金色の粒を拾いあげ、石で叩きます。
    粒は割れずに、延ばされます。

    彼は、家に持ち帰った金の粒とアクを鍋に入れて煮ます。
    化学変化せずに輝いています。これは、本物の黄金です。

    1月28日、彼は迷った末、主人のサッターに報告します。
    サッターは、喜びます。黄金が産出されたのは、自分が借りている土地。 黄金を独り占めして、億万長者になるチャンスです。

    この事実は、二人だけの秘密にしよう。しかし、使用人達は秘密を探っているようでした。

    2月1日、秘密保持が難しいと感じた二人は、使用人達を集めて、
    「金が発見されたが、6週間だけ、誰にも言うな」
    と厳しく命令します。

    この当時アメリカは、メキシコと戦争をしていました(1845-48年米墨戦争)。 アメリカは、一方的に勝利します。

    奇しくも、サッターが秘密保持を使用人に厳命した日の翌日(2月2日)、アメリカは現在のテキサス、カリフォルニア、ニューメキシコ、ユタ、ネバダ、アリゾナをメキシコから割譲します。

    アメリカは幸運でした。
    手に入れたカリフォルニアは、黄金郷(エルドラド)だったのです。

    ◆◆「絶対に言うな」といわれると◆◆
    ◆◆「ここだけの話だが・・・」と言いたくなりますね◆◆

    (参考文献)「アメリカ西部開拓博物誌」 鶴谷 壽著 PMC出版

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    (2002/12/16)
    カリフォルニア・ゴールドラッシュ
    (後編)

    サッターは、現地人など200人を使い、農場を経営していました。 金発見の秘密を打ち明けられた使用人は、一人残らず仕事を放り出し、アメリカン川に金採掘に向います。

    農場で働いていたのでは1日2ドル、砂金探しは1日に100ドル。
    これでは、働き手を確保するのは不可能です。

    サッターの王国は、この時点で崩壊します。

    砂金の噂は、瞬く間にカリフォルニア中に広がります。
    辺鄙な漁村だったサンフランシスコは、黄金熱が猛威をふるいます。

    教師は授業を投げ出し、漁民は船を捨て、牧師は教会を閉めて・・・
    サンフランシスコの男子住民の3/4がアメリカン川を目指したのです。

    1848年には1000万ドル、1849年には4000万ドルの金が採掘されました。
    アメリカ中が、そして世界中の人々がこのニュースを知ります。

    金を求めて、西部開拓者達はカリフォルニアに殺到します。
    幌馬車で、大陸を横断する人。パナマで、船を乗り継ぐ人。マゼラン海峡を回って、ニューヨークから来る人。

    日本からもジョン万次郎(当時23歳)が参加しています。彼は、14歳のとき、遭難していたところをアメリカの捕鯨船に助けられ、その後アメリカ東部にいました。 ゴールドラッシュのニュースを聞いて、カリフォルニアで金を得て、日本に帰る旅費を稼ごうとしたようです。

    1852年、サンフランシスコの人口は、20万人に膨れ上がります。 金への限りない欲望が、西部開拓の原動力だったのです。

    さて、気の毒なのは、本来なら世界一の億万長者になるはずのサッターです。
    60人の私兵の心を繋ぎ留められなかったのが、彼の敗因でしょう。

    全世界から押し寄せた金の亡者達は、武力を持たない土地所有者に正当な分け前を払おうとしません。 彼は、損害賠償をとろうと州や政府を告訴しますが、結果が出る前に亡くなります。

    金の第一発見者マーシャルも、不遇でした。 鉱夫達と争い、リンチをかけられそうになります。

    ◆◆わずかの年金で晩年を過ごし、最後は、無一文で亡くなったようです。◆◆
    ◆◆ しかし、彼の発見した金は、「ウィマーの金塊」として◆◆
    ◆◆スミソニアン博物館に展示されています。◆◆

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