■J_Coffeeの徒然草(28巻)■
華族の話(前編) |
1869年(明治2年)、維新政府は大名の支配する土地と人民を朝廷に奉還させます(版籍奉還)。 何の代償もなく、大名が手放すはずはありません。 大名には、軍事力があります。
大名と藩士の主従の関係をどう断ち切ったか?
つまり、300諸侯といわれた大名を華族として特権を与え、藩士を士族として遇することにより、維新政府は封建身分制度の解消に成功します。
華族は、近代日本の黎明期に、こうして誕生したのです。
5摂家などの公家も同時に、華族に叙せられます。
1884年(明治17年)に、華族に対し、公・侯・伯・子・男の5つの爵位が与えられます。
当時、最高位の公爵は、徳川家、島津家(2人)、毛利家の4人だけでした。 加賀100万石の前田家は、侯爵にすぎません。薩長の藩閥政治の影響でしょう。
この年に注目されるのが、明治維新の立役者が新華族になったことです。
伊藤博文、山県有朋、黒田清隆、松方正義、井上馨、西郷従道、大山巌などは、伯爵に叙せられました。
旧華族は、新参者の新華族を嫌い、対立したそうです。
学習院は、昔は、華族学校といって、皇族と華族の子供を教育する学校でした。 平民でも、財閥の子供は、特別に入学が認められました。
侯爵と伯爵は、皇族とともに、貴族院の終身議員の地位が保証されていました。 伯・子・男爵についても、一度議員に選出されると、7年間は解散がありません。
華族は、80年間、日本の上流社会を形成してきたのです。
そして、玉音放送・・・太平洋戦争が終結。
1948年5月、日本国憲法の制定とともに、華族制度は廃止されます。
しかし、多くの華族を苦しめ没落させた、政府の施策は、華族制度廃止のニ年前に断行されました。
◆◆意外に知られていない、衝撃的な政府の施策とは何か?◆◆
◆◆
この続きは、明日発表します。◆◆
(参考文献)「元華族達の戦後史」酒井美意子著
華族の話(後編) |
1947年(昭和21年)11月、戦後の財政の行き詰まりを打開するため、GHQの指導に基づき、政府は、「財産税法」を制定して、財産税が徴収されることとなります。
財産税は、10万円以上(今の価値に直すと約5000万円以上)の財産を保有する個人に課せられ、税率は次のとおりでした。
財産額 | 税率 |
---|---|
10万円を超える金額 | 5% |
11万円を超える金額 | 30% |
12万円を超える金額 | 35% |
13万円を超える金額 | 40% |
15万円を超える金額 | 45% |
17万円を超える金額 | 50% |
20万円を超える金額 | 55% |
30万円を超える金額 | 60% |
50万円を超える金額 | 65% |
100万円を超える金額 | 70% |
150万円を超える金額 | 75% |
300万円を超える金額 | 80% |
500万円を超える金額 | 85% |
1500万円を超える金額 | 90% |
すなわち、膨大な資産を持っていた華族達は、全財産の90%近くを税金として支払う必要がありました。 戦後の混乱期とはいえ、個人財産の約9割を取上げる累進課税は、過酷だと思います。
現金で支払うか、物納するか、利息を払って延納するか?
広大な屋敷、別荘、土地、先祖伝来の絵画、掛け軸などの骨董品を直ぐに換金することは出来ません。
多くのケースで、財産が物納されました。
物納された骨董品の買い手は、日本国内には、いません。
国宝級の美術品が、海外に流出していきました。
このとき延納を選び土地を温存し、ドッジデフレ時代の資金繰りを凌いだ華族は、土地価格の高騰で大金持ちとして、生き残れたそうです。
1948年春に発表された財産税の納税番付のトップは、天皇家です。
37億4300万円を納め、残りの財産は、国有財産になりました。
秩父宮、高松宮、三笠宮を除く、11家51人の皇族が財産税を支払った上に皇籍を離脱します。 彼らに対しては、わずかの一時金が、支払われますが、直ぐに底をつきます。
ある内親王は、鶏を飼い、卵の生産・販売をしたり、プラステック加工の内職をして、元軍人で失業中の夫を助けたそうです。
皇族でさえ、この状況です。多くの華族が、この瞬間に致命的な打撃を受けて、没落し、路頭に迷います。
1950年1月、絶世の美女といわれた伯爵令嬢・堀田英子さんが、戦後の成金・小佐野賢治さん(国際興業社主)と結婚します。結納金は、なんと400万円。財産税がなかったら、二人は結ばれなかったと思います。
◆◆華族達を犠牲にした財産税は、日本の財政再建と復興に役に立ちました。◆◆
◆◆
さて、国債バブルが弾けて、政府が本当に困った時、◆◆
◆◆この財産税が現在の日本に甦るような気がしてなりません。◆◆
◆◆お金持ちの方は、ご用心◆◆
巣鴨地蔵通り商店街 |
JR山手線の巣鴨駅にある地蔵通りは、シニアに親切な町です。 おばあちゃん達は、高岩寺のとげ抜き地蔵に参拝した後、地蔵通りで買い物をします。
歩行者天国には、椅子が置いてあるし、店の人は話し相手になってくれます。 マクドナルドは一階をシニア優先のシルバーシートに決めてあるし、マツモトキヨシは入れ歯洗浄剤をよい場所に置いています。
おばあちゃんの原宿といわれるほど、老人ヒット商品の発信地でもあります。 マルジという店が赤パン(赤いズロース)を流行させたのは有名です。
昔、新宿の京王百貨店が、若者を捨て、中高年向けに品ぞろいを特化する戦略を立てて成功したことがあります。 そのときのモデルとして研究したのが、巣鴨地蔵通り商店街でした。
実は、高岩寺は、この地に最初からあった訳ではありません。
1891年(明治24年)上野にあった高岩寺は、東京府から命令で巣鴨へ移転します。
区画整理の影響でした。
当時の巣鴨は、人口2700人の小さな町。移転費用もかさみ、寺の財政は逼迫します。
この時期、高岩寺は無名で、近くの真性寺(六地蔵のある寺)の方が有名でした。
高岩寺住職は、財政破綻の責任を取ってやめ、1897年に住職を継いだのは、巨海道夫です。
寺の経営を立て直すためにどうしたらよいか?
巨海は、熟慮の末、秘策を放ちます。
それまで、毎月24日のみに開いていた縁日を、4のつく日全てに開くようにします。 つまり、縁日を三倍に増やしたのです。 |
そして、縁日の露店から徴収する寺銭を無料にします。
先ず、露店を増やし、参拝客を増やそうとする戦略を立てたのです。
無名の寺は、この政策で次第に賑わうようになりました。
そして、決定的な出来事が・・・
1903年、山手線が開通して、交通が便利となり、巣鴨の人口は急増します。
福島屋という和菓子屋が、「心や体のトゲを抜いてくれるという」というお地蔵さんの縁起を積極的に広めたのも発展に影響したようです。
大正から昭和にかけて、高岩寺は地蔵通り商店街と運命共同体となって、参拝客の増加を図るようになります。 両者の協力で、地蔵通りは繁栄を謳歌するようになったのです。
◆◆老人人口の増加に伴い、◆◆
◆◆老人に優しい町の未来は、約束されています。◆◆
◆◆
最近、日曜・祭日は、4がつかない日でも、混雑してますね。◆◆
(参考文献) 「とげぬき地蔵経済学」 竹内宏
医師ガシェの肖像(前編) |
天才画家ヴィンセント・ヴァン・ゴッホは多くの油絵を描きましたが、お客からは受け入れられず、ほとんど売れませんでした。 ゴッホは、貧しく、孤独でした。
彼の心を支えたのは、弟テオの経済的援助と画家ゴーギャンの友情でした。
しかし、ゴーギャンとの友情は、ある日破綻します。
1888年10月23日、二人は激しく言い争った後、ゴーギャンは出ていきます。
残されたゴッホは、発作的に自らの左耳下部を切り落とします。
彼は、精神病院に入れられます。そこで彼は、寂しい表情の自画像を描きます。
そして、退院して、ゴッホが最後に住み着いたのは、パリの北部オーヴェールです。
彼は、そこで、医師ガシェの治療を受けます。ガシェは、ゴッホの絵の理解者の一人でした。
1890年6月、ゴッホは、自画像を書くのをやめ、医師ガシェの肖像を描き始めます。左手に握られているのは、薬草で、医師の澄んだ目が印象的です。
ガシェは、オリジナルのゴッホによる複製が欲しくなりました。この願いは、かなえられ、やや粗雑な「医師ガシェの肖像」を医師は手に入れました。
晩年の傑作を書き終えた翌月、ゴッホはピストルを胸に当て自殺します。
まだ37才。
弟テオとガシェは、ゴッホの最後を看取ります。そして、弟テオも後追うように翌年亡くなります。
・・・その7年後・・・
テオの未亡人は、「医師ガシェの肖像」をパリの画商アンブロワーズ・ヴォラールを通じて、コペンハーゲンの女性コレクターに売却します。
価格は、300フラン(58ドル)でした。
テオの未亡人は、ゴッホの絵が気に入られ、換金できたのを大喜びします。
しかし、それは愚かな行為でした。魂を揺さぶるゴッホの絵は、次第に真価が認められるようになります。
◆◆・・・ゴッホの死後、100年・・・・◆◆
◆◆
数奇な運命を経て、名画はバブルに浮かれた日本に◆◆
◆◆登場することになるのです。◆◆
医師ガシェの肖像(中編) |
1990年5月15日夕刻、サザビーズのオークションでは、本日のトリ、注目作品が厳かにベールを脱ぎます。 死ぬ間際に描いたゴッホの名作「医師ガシェの肖像」が、スポットライトを浴びて登場です。
競りは、2000万ドルから開始され、100万ドル単位で上がっていきます。
4900万ドル・・・5000万ドル・・・5100万ドル!
ついに、ゴッホの「アイリス」の記録(5000万ドル)を抜きさり、史上最高の価格になることが決定します。
最後に残ったのは、日本人とスイス人。
銀座の小林画廊とチューリッヒの画商トマス・アマンの一騎打ちです。
両者は、一歩も譲りません。
「7500万ドル!」と小林秀人は、携帯電話の指示に従い宣言します。
30秒の沈黙・・・ハンマーの音・・・
「7500万ドル(113億8000万円)で落札しました」
会場は、ジャパンマネーの凄さに圧倒され、やがて拍手が沸き起こります。
テオの未亡人が、たったの58ドルで売った絵画は、93年間に129万倍に暴騰したのです。
しかし、この落札記録は、わずか二日後に塗り替えられます。
サザビーズで、ルノアールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」が7810万ドル(118億5000万円)で落札されたのです。
落札者は、またもや小林画廊。
そして、二枚の絵画の購入者は、もちろん同一人物。
その大金持の名は
斉藤了英・・・大昭和製紙の会長です。
・・・2ヵ月後・・・
斉藤了英は、絵画購入資金を捻出するために、新宿区北新宿2丁目の土地約1800平方メートルを約100億円で、静岡県沼津市の土地約10000万平方メートルも約30億円で売却します。さらに大昭和製紙の持ち株400万株を120億円で売ります。
売り先は、一族の資産管理会社で、相続税対策にもなりました。
◆◆斉藤氏は、土地の売却益により、1990年の長者番付のトップに躍り出ます◆◆
◆◆
1991年5月、長者番付発表の際、押しかける記者に対して、◆◆
◆◆斉藤了英は、とんでもない失言を漏らしてしまうのです。◆◆
(参考文献)「消えた名画を旅して」糸井恵著
医師ガシェの肖像(後編) |
「ゴッホとルノワールは、自分が死んだら俺の棺桶で焼いてくれ。」 |
長者番付トップに輝いた斉藤了英の言葉は、そのまま新聞に載りました。
日本では、冗談と聞き流されたこの発言は、海外の美術関係者を怒らせました。
「人類の貴重な財産を個人の供養のために灰にする」と受けとられ、繰り返し非難されたのです。
斉藤氏は、慌てて否定しましたが、遅すぎました。
1990年5月、2枚の絵を買ったとき、日本経済のバブル崩壊は始まっていました。
過剰な設備投資で、売上げ以上の有利子負債を抱えた大昭和製紙の業績は不振を極めます。
1991年3月の経常利益は、149億円の赤字です。
1993年11月11日、斉藤了英は、東京地検特捜部に逮捕されます。
本間俊太郎前宮城県知事への1億円ヤミ献金の容疑でした。
大昭和製紙名誉会長の職も退き、失意の晩年を過ごします。
1996年3月30日、脳梗塞で死去。
さて、2枚の絵画は、どうなったか?
棺桶には入れられず、燃やされてはいません。
「医師ガシェの肖像」は、斉藤家の管理から離れ、銀行の担保となり、海外への売却を待っているようです。
「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」は、大昭和製紙の所有物となり、1997年にサザビーズの仲介で売却されました。 価格は、5000万ドル(約60億円)と推定されます。
買値は125億円(小林画廊への手数料と消費税を含む)と言われていますから、7年間に半値以下の損害です。
◆◆買った時期が、152円の円安だったのも響いています。◆◆
◆◆
斉藤了英は、この絵を一度見ただけで、◆◆
◆◆倉庫に保管したといいますから、高くついていますね。◆◆
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