■経済史に学ぶ(戦前)■

---目次---
  • 上杉鷹山と米沢藩の構造改革(前編)
  • 上杉鷹山と米沢藩の構造改革(後編)
  • 第一次世界大戦とイギリスとアメリカ(前編)
  • 第一次世界大戦とイギリスとアメリカ(後編)
  • 漁村の主婦が起こした米騒動
  • ドイツのハイパーインフレ(前編)
  • ドイツのハイパーインフレ(後編)
  • 世界大恐慌と失業者(前編)
  • 世界大恐慌と失業者(後編)

  • (2001/3/30)
    上杉鷹山と米沢藩の
    構造改革(前編)

    上杉家は、戦国武将・上杉謙信以来の名家で、会津120万石を領有していました。ところが、関が原の戦いで西軍側についたために、米沢30万石に転封されます。 さらに、後継ぎ問題を幕府から突かれて、15万石(6万5000両)に減らされます。

    収入は減っても、6000人の家臣をほとんど減らすことが出来ず、借金が20万両に激増します。 何と、年収の3倍の借金があったのです。

    米沢藩の財政は、完全に破綻していたのです。

    1767年、上杉鷹山は、17歳で米沢藩の当主となります。彼は、九州の小藩、秋月家から来た養子だったのです。 上杉鷹山は、質素倹約を徹底させます。自らも食事は、一汁一菜、木綿の着物を愛用します。

    そして、行政改革を断行して、94のポストを削減してしまいます。世襲制度を廃止して、人材登用を推進します。 行革で余った人材は、新田開発や、堤防工事に投入します。

    当主になって、6年後、守旧派の重臣による「七家騒動」というクーデター未遂事件が起きます。 下級武士の支持を集めた上杉鷹山は、この争いに勝利します。

    人心を収攬した鷹山は、本格的な改革に全力で邁進しました。

    鷹山は、質素倹約だけの人ではありません。
    米沢に新しい産業を興すことが藩を救うことになる、という強い信念を持っていました。

    彼は、漆の木を100万本植える計画を実行に移します。

    漆の樹液は、塗り物に使います。しかし、彼の狙いは、別のところにありました。
    上杉鷹山は、漆の実からロウソクを作り販売しようと考えたのです。

    当時、ロウソクは提灯用の明かりとして、飛ぶように売れていたのです。

    鷹山は、切り詰めて捻出した資金で、ロウソクの大量生産工場を建設します。

    ◆◆工場の年収は、6700両にも達して、計画は成功したかに見えました。◆◆
    ◆◆ しかし、思わぬ所から、鷹山が全精力を傾けた、◆◆
    ◆◆この計画は、破綻してしまいます・・・◆◆

    ◆◆「米沢藩と日本」(J_Coffeeの歴史相似則)◆◆

    (参考文献) 「堂々日本史13」   NHK取材班  KTC中央出版

    (追伸)昨日と今日、Fマート、ステラケミファ、住商オートリース売りました。PKOは、好きになれません。

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    (2001/3/31)
    上杉鷹山と米沢藩の
    構造改革(後編)

    漆の実でとったロウソクに、突然ライバルが出現します。九州、四国で櫨(はぜ)の実から製造した低コストのロウソクが開発され、市場を席巻したのです。 櫨の実は、漆の実よりも大きくてロウを多く含みます。米沢のロウソクは、売れなくなります。

    同じ頃、天明の大飢饉が起こり、藩の収入が激減し、鷹山は、失意のどん底に叩き落されます。

    上杉鷹山は、責任をとり35歳で隠居を決意します。

    しかし、鷹山は、隠居後も実権を持ちつづけ、殖産興業の信念を貫き通しました。
    彼は、徹底的な現場主義を採用して、ヒット商品の可能性を調査させます。

    桑の栽培と米沢織り、紅花、藍、米、酒、山菜類、火打ち石、鯉・・・・
    綿密な調査を行った分野は、53品目にも及びました。

    失敗したものもありますが、多くは、米沢の特産物となります。

    彼は、農民に桑の苗木を配り、桑畑の年貢を、3年間免除します。
    蚕の養殖に優れた技術を持つ者は、農民でも役人に抜擢しました。

    そして、越後などの絹織物の先進地域から、技術を導入します。
    こうした藩ぐるみの努力から、米沢織りは、誕生したのです。

    米沢織りは、品質の高さで大成功を収め、藩の財政は、少しずつ改善へ向かいます。

    武士も領民も明るさを取り戻し、米沢藩に活気がでます。

    1822年、上杉鷹山は、72歳で死去します。
    そして、その翌年、米沢藩の財政はついに黒字転換します。

    さて、危機の日本にも、上杉鷹山の不屈の精神が、必要なのではないでしょうか?

    ◆◆最後に、上杉鷹山の有名な言葉をご紹介しましょう。◆◆
    ◆◆ なせば成る、なさねば成らぬ何事も◆◆
    ◆◆成らぬは人のなさぬなりけり◆◆

    ◆◆ この歌は、彼が治世に失敗して、失意にうちに隠居した時、◆◆
    ◆◆息子に贈ったものなのです・・◆◆

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    (2001/3/1)
    第一次世界大戦と
    イギリスとアメリカ(前編)

    1900年のイギリスは、世界最大の海軍を持ち、地球のほぼ1/4を支配する大帝国でした。

    しかし、その経済力は衰退する一方だったのです。
    1880年には、世界の工業の22.9%も占めていたのに、1912年には、14.1%に低下してアメリカ、ドイツに追い越されます。

    それでもなお、イギリスのポンドは、金の次に信頼される通貨として、
    外貨準備や貿易の支払い手段に使用されていたのです。

    イギリスは、困難に直面した諸外国に対しても、
    いわゆる最後の貸し手の役割を果たしていたのです。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    19世紀末、アメリカは、経済的に発展します。1908年ヘンリー・フォードがT型フォードを作り出します。1914年、アメリカの石炭産出量は、4億5500万トンで、イギリスの2億9200万トンを凌いでいました。アメリカは、世界一の石油輸出国で、銑鉄の生産は、ドイツ、フランス、イギリスの合計より多かったのです。

    対ヨーロッパ貿易は、工業製品や農産物の輸出により膨大な黒字でした。 世界一の経済大国にもかかわらず、その軍事力はドイツ、フランス、ロシアより見劣りしていました。

    アメリカは、孤立政策により、大国であるにもかかわらず、
    アメリカ大陸以外の諸国との外交に、あまり深く関与したがらなかったのです。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    1914年6月、フェルディナント大公が、暗殺されたのを発端に第一次世界大戦が始まります。

    戦争当事国の誤算は、この戦争が直ぐに終らなかったことです。
    機関銃の発明は、塹壕に篭った長期戦を招いたのです。

    イギリスの国防費は、1913年の9100万ポンドから、1918年には19億5600万ポンドに増加します。
    国防費は、政府総支出の実に80%を占めたのです。

    通貨量が、金保有高で制限される金本位制を守ったら、軍事予算が組めません。
    全ての戦争参加国は、金の輸出を禁止して、金本位制から離脱します。

    最後まで残ったアメリカや日本も、金本位制からついに離脱します。

    イギリスは、フランス、ロシア、イタリアなどの連合国に38億ドルもの資金を融資します。やがて、アメリカがイギリスに替わるようになります。

    そして、イギリス自体も、アメリカから調達する数十億ドルを越える食料や軍事物資を購入するためには、ニューヨークやシカゴの金融市場から借金するしかなかったのです。

    1917年4月、アメリカが参戦します。

    当初は小さかったアメリカの軍事力は、その経済力、技術力を背景に月を経るごとに強大になります。

    ◆◆アメリカ参戦は、戦線を離脱したロシアなどより、◆◆
    ◆◆遥かに決定的な影響を戦局に与えます。◆◆
    ◆◆ 1918年、ドイツやオーストリア・ハンガリーは、敗北して、◆◆
    ◆◆第一次世界大戦は終結します。この続きは明日発表します。◆◆

    (参考文献) 「大国の興亡」  ポール・ケネディ   草思社

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    (2001/3/2)
    第一次世界大戦と
    イギリスとアメリカ(後編)

    第一次大戦前、覇権国家イギリスは、世界各国からの輸入を増やし、自国の貿易赤字や、弱小国の国内保護政策にも寛容でした。自由貿易と世界の金本位制を支え、他国への資金援助も惜しまなかったのです。

    ところが、第一次世界大戦による巨額の債務は、イギリスが今までの役目を続けることを不可能にします。

    経済大国アメリカは、1919年世界で最初に金本位制への復帰を果たします。
    他国は、どこも追随できません。

    しかし、アメリカは、自分の殻に閉じこもります。アメリカのウィルソン大統領の提案で発足した国際連盟への参加さえ、議会の反対によりできません。

    アメリカは、イギリスの役割を担おうとはしなかったのです。

    1925年、イギリスは、金本位制への復帰を果たします。アメリカは、イギリスに対して融資を行い、自国の通貨発行量を増やしてこれを助けます。

    為替レートは、戦前と同じ1ポンド=4.86ドルに定められます。しかし、明らかに、ポンドは、過大評価されていました。イギリスの輸出産業は、大打撃を受けます。

    ドイツは1924年、フランスは1926年に金本位制に戻ります。

    そして、1929年10月、繁栄を謳歌していたアメリカに、株の大暴落が起こります。
    世界恐慌の始まりです。

    日本は、なんと1930年1月金解禁(つまり金本位制)を実施しています。
    この政策は、経済の流れを読めない大失敗で、最悪のタイミングでした。

    アメリカで誕生したデフレという怪物が、金本位制によって全世界に伝播します。
    不況と失業と物価の下落と世界経済の縮小・・・

    1931年秋、イギリスは、金本位制を離脱して、ポンドを切り下げ輸出を増やそうとします。

    日本も離脱は必至と予測した商社や銀行は、ドル投機に走ります。
    日銀は、金利を引き上げ対抗しますが、1931年12月、日本は金輸出再禁止に追い込まれます。

    各国も、次々と離脱して、為替の引き下げ競争が始まります。

    イギリスとその連邦諸国は、ポンド・ブロック圏をつくります。
    アメリカは、ドル・ブロック圏を、日本は、アジアに円ブロック圏をつくります。

    最後まで、金本位制を守ったフランスは、ベルギー、スイスなどと金ブロック圏をつくります。
    ソ連も、また独自の世界に閉じこもります。

    基軸通貨の存在しない世界は、混乱し、分断され、恐慌に沈んでいったのです。
    そして、ナチスドイツと日本の軍国主義が高まり、不幸な戦争が再び始まったのです。

    ◆◆私の感想・・・・◆◆
    ◆◆「赤字垂れ流しのドルの退位」は、まだ早いですよ。◆◆

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    (2001/3/4)
    漁村の主婦が起こした
    米騒動

    第一次世界大戦は、戦場から遠く離れ打撃を受けなかった日本に空前のバブル景気をもたらします。

    株価も連日高騰し、物価も騰貴します。

    工業の発展により、農村から都市部へ人口の移動が進みます。
    米の生産力は、落ち込んでしまいます。

    千載一遇の金儲けのチャンス到来です。
    こうして米の買占め、売り惜しみが横行したのです。

    一升11銭程度だった米は、1918年7月には、3倍の33銭にまで高騰します。

    1918年7月こうした状況下で、富山県魚津において、漁師の主婦達の井戸端会議から事件は起こります。

    「まったく、一日中、繊維工場で働いても、たったの20銭よ。米一升も買えやしない。」
    「魚津は、米が余っているのよ。あの船でどこかに米を持っていくから、高くなるのよ。」

    数十人の主婦が港に押しかけ、米の積み込みの港湾作業を中止させてしまいます。
    船は空荷で出航します。

    この事件は、新聞全国版に「越中女一揆」として掲載されます。
    ところが、この記事は思わぬ波紋を生み出します。

    1道3府38県の地域で70万人以上の民衆が、米屋、精米業者、商社、あるいは米と無関係の資産家の所に押しかけたのです。 米を安く売らせる請願に始まり、最後は略奪、焼き討ちを実行したのです。

    9万2000人の軍隊が出動し、寺内正毅内閣は総辞職を余儀なくされました。
    以上が「米騒動」の概略です。

    米屋を襲った動機は、飢餓ではありません。
    事件の底流に潜む動機には、戦争成金への妬みがあったと思われます。

    鈴木商店は、大番頭・金子直吉の活躍で、このバブル期に三井、三菱を凌ぐ財閥に成り上がりました。同社は、高額の手数料で米を輸出しているとの新聞記事の誤報が原因で、焼き討ちに遭いました。

    ◆◆歴史の神様は、へそ曲がりです。

    ◆◆ この時のバブルも直ぐに崩壊し、◆◆
    ◆◆後に米が暴落して、農家の娘が身売りする恐慌が訪れます・・・・◆◆

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    (2001/5/2)
    ドイツのハイパーインフレ(前編)

    ドイツは、国力をすり減らした末、第一次世界大戦に敗北し、すべての植民地を失います。 1919年2月、ワイマール憲法が制定されてドイツ共和国が成立します。

    一方、ヴェルサイユ条約で、ドイツの賠償責任 が定められます。具体的には、1320億金マルクという途方もない金額を、フランスなどの戦勝国に支払うことが決まったのです。 ドイツ共和国政府は、穏健な社会主義政党が主体でしたが、軍部や産業界など多くの勢力と妥協した政権でした。

    賠償金の支払いのため、増税をして、歳出をカットすることなどできるはずがありません。あらゆる勢力と妥協するためには、財政支出が必要です。

    政府は、財政支出をまかなうため、国債を乱発して、中央銀行であるライヒス銀行に購入させます。

    こうして、紙幣がドイツに溢れ出します。

    1922年の一年間に、通貨は、17.2倍に増加します。そして、卸売物価は75.9倍に上がります。
    通貨の増え方より、インフレの進行のほうが倍率が高いのは何故でしょうか?

    インフレが起こると、現金を手にした人は一刻も早く物に替えようと必死に努力します。金利がいくら高くても、貯金などする馬鹿はいません。

    通貨は、恐ろしい速さで人から人へとたらい回しにされます。
    ババ抜きのババのように・・・

    通貨の流動性が著しく上昇するのです。

    したがって、ハイパーインフレがおこると、通貨の増加スピード以上のスピードで物価の高騰は進むのです。

    誰もが、自国通貨を信用しないのです。
    すべての人が、物への投機家になるのです。

    後に分かることですが、1922年のインフレは、1923年に比べたら天国でした。

    ドイツは、賠償金を払えなくなります。フランスは、ドイツから賠償金が取れないと、イギリス、アメリカへの借金の返済が出来ません。

    フランスとベルギーは、報復措置として、ドイツのルール地方を占領します。基幹産業の石炭、鉄鋼を失い、ドイツ経済は、壊滅的な大打撃を受けます。

    ◆◆世界史上最悪といわれる、◆◆
    ◆◆1923年のドイツのハイパーインフレが、炸裂します。◆◆
    ◆◆ この続きは、明日発表します。◆◆

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    (2001/5/3)
    ドイツのハイパーインフレ(後編)

    下の表をじっくりとご覧になってください。
    この表は、1923年のドイツの通貨量と卸売物価の推移です。1922年1月を1とした指数表示です。

    年月通貨量(現金)卸売り物価1月当たり物価上昇
    1922年1月11
    1923年1月17.275.9
    3月47.813332%
    5月74.222329%
    7月3782,0383.0倍
    8月5,74825,72312.6倍
    9月244,670652,55825.4倍
    10月21,640,935193,318,801296.2倍
    11月3,469,275,32019,773,841,962102.3倍
    12月4,303,422,96034,376,021,7981.74倍

    この2年間に、現金は43億倍に増加して、卸売り物価は何と344億倍に高騰します。
    一番ひどかったのは、1923年10月で、わずか31日間に物価は296倍になります。

    高額紙幣の発行は間に合わず、旧紙幣の数字の末尾に0をつけて流通させたそうです。しかたなく、重い札束を持ってレストランに行きます。札束を盗む物好きはいませんから、むき出しで、札束を運んでもで大丈夫です。このときは、ビールを2杯注文したら、1杯目と2杯目とでは、値段が違っていたそうです。

    富の再分配が行われます。

    真面目に節約して蓄えた、貯金や国債や生命保険は、紙くずになります。長年働いて築いた年金はいざ受け取っても、何も買えません。 国を信用して行動した人は、すべてを失ってしまうのです。

    そして、早い時期に果敢に借金をして、土地や株や外貨を購入したものは、労せずして財産を得ます。 すべての借金は、インフレで目減りして限りなくゼロに近づき、いとも簡単に返せるのです。

    1923年10月15日、通貨改革宣言が打ち出され、天文学的数字のデノミが実施されます。
    1レンテンマルク=1兆旧マルク

    ライヒス銀行の業務は、レンテン銀行に引き継がれます。 レンテン銀行の発行できる通貨の量は、32億レンテンマルクに制限され、国債の引き受け額も12億レンテンマルクの上限が決められます。

    中央銀行の断固たる決意を受けて、ハイパーインフレも収束に向かいます。

    しかし、ドイツ国民は、インフレがもたらした社会的不公正に我慢できなくなります。
    1929年、アメリカで株価の大暴落が起こり、世界は、恐慌に突入します。
    やがて、民主主義は嫌われて、法と秩序を主張するナチスドイツが頭角をあらわします・・・・

    ◆◆さて、日本の国債残高が、気になりますね。◆◆
    ◆◆今はデフレで大騒ぎしていますが、◆◆
    ◆◆私は、将来日本をインフレが襲う気がしてなりません。◆◆

    ◆◆皆さんどう思われますか?◆◆

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    (2001/3/9)
    世界大恐慌と失業者(前編)

    1929年10月24日(暗黒の木曜日)、ニューヨーク株式市場は、突然崩壊します。
    それから、アメリカは、大恐慌へと転落していきます。

    このサイトでは、何度も取り上げた事件ですが、今回は、失業問題に焦点を当てたいと思います。 株が大暴落した当時の失業者の数は、155万人で労働者人口の3.2%に過ぎませんでした。

    デトロイトのフォードの工場では、自動車が急に売れなくなり、
    12万8000人いた従業員を12月末に10万人までリストラします。
    しかし、これはほんの序の口でした。1930年には、同工場の従業員は、3万7000人に激減します。

    1930年、アメリカの失業者数は434万人、失業率は8.7%に跳ね上がります。

    この年の秋、経営不振のりんご出荷協会は、失業者にりんごを売らせる計画を実行に移します。

    失業者が、同協会からりんごを1個2.5セントで購入して、
    「職を求む」との看板を掲げて、路上で5セントで販売したのです。

    最初は、多くの人が珍しさと同情から購入して、良い収入になったそうです。
    12月には、ニューヨークだけで、6000人の失業者のりんご売りが誕生します。

    フーバー大統領は、「不況は、もう終った」と主張し続けます。
    しかし、誰の目にもそれは間違いであることが、鮮明になります。

    1932年、失業者数は、なんと1200万人を突破、
    失業率は史上空前の24%に達します。

    実に、4人に1人は、職がないのです。

    仕事を失うことを恐れる人々は、現金を使わなくなります。
    失業者のりんごを買う人が、街から消えてしまいます。

    1932年、生活に困った退役軍人が軍人賞与の支給を求める運動を起こしますが、議会で否決されます。 彼らは、キャンプに立てこもり、運動を続けます。

    フーバー大統領は、退役軍人のキャンプを容赦なく、焼き払います。
    アメリカ国民の恨みは、一層つのります。

    ◆◆各都市に、ホームレスの集落が出現します。◆◆
    ◆◆アメリカ人は、皮肉を込めて、この集落をフーバービルと名づけます。◆◆
    ◆◆ 大統領選挙は、もう直ぐです。◆◆

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    (2001/3/10)
    世界大恐慌と失業者(後編)

    1932年の大統領選では、人々は「フーバーをつるせ!」と叫びます。

    民主党のルーズベルトが、472対59の圧倒的大差で新大統領に当選します。
    1933年3月、ルーズベルトは有名なニューディール政策を開始します。

    ルーズベルトは、国民の消費意欲が刺激されないと現状を打破できないと考えます。

    最初に、連邦緊急救済局(FERA)がつくられて、300万家族、1250万人に援助の手がさしのべられます。
    食料などの無条件支給と、ワ−クレリーフ(仕事を行う対価としての救済)の二本立てでした。

    やがて、無理をしても仕事が作り出されるようになります。

    なるべく、材料費を使わず、賃金のウェイトの高いものが優先されたそうです。
    二級道路、学校校舎の改修、飛行場、遊び場など、数多くの身近な事業が実施されます。
    財政は多額の赤字になりますが、賃金を得た人達の消費意欲は、改善されます。

    1933年夏、悪性のデフレは終了して、物価は上昇を開始します。
    やがて、遅れていた重工業を改善させるため、ダムなどの波及効果の大きい大規模公共事業も開始されます。

    1938年、失業者の数は、1039万人もいましたが、うち359万人は失業対策事業で収入を得ており、実質的な失業率は、12.5%まで下がります。

    改善したとは言え、この失業率は、まだまだ危険な高水準です。
    この時点では、ドイツ、日本の方が先に恐慌を克服したといわれています。

    1939年、ナチスドイツが、ポーランドに侵攻します。

    アメリカに特需が発生します。
    イギリスは、アメリカに対する武器の支払いを、ドルか金で行わなければなりませんでした。

    1941年、日本はハワイ真珠湾を奇襲します。

    1942年2月23日、イギリスは、アメリカと基本協定を結びます。
    そして、武器輸出の見返りとして、ポンドブロックの特恵関税を突き崩すことに、アメリカは、成功したのです。

    自由貿易が保証され、アメリカの経済覇権が完成します。

    ◆◆アメリカは、全力を投入して、◆◆
    ◆◆軍需産業を中心に、急速に生産を増大させます。◆◆

    ◆◆あれほど存在した失業者が、街から消えます。◆◆
    ◆◆ 実は、戦争景気が、アメリカの失業率を正常な水準に戻したのです。◆◆

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