■相場師列伝(2巻)■

---目次---
  • 古典「三猿金泉録」と牛田権三郎
  • ニック・リーソンと阪神淡路大震災
  • ビクター・ニーダーホッファーの栄光と挫折(前編)
  • 暗黒の木曜日におけるチャールズ・メリル
  • ベンチャーキャピタルの錬金術師、ジョン・ドウアー
  • ビクター・ニーダーホッファーの栄光と挫折(後編)
  • 今紀文、鈴木久五郎の夢(前編)
  • 伝説の相場師W.D.ギャンの生涯
  • 空売り王、ジェシー・リバモア
  • 今紀文、鈴木久五郎の夢(中編)
  • 辣腕家ボウスキーの蹉跌
  • 天才トレーダーは、量産可能(タートルズ秘話前編)
  • 今紀文、鈴木久五郎の夢(後編)
  • 第3巻へ
  • 天才トレーダーは、量産可能(タートルズ秘話後編)

  • (2000/10/9)
    古典「三猿金泉録」と
    牛田権三郎

    株式格言の源流の一つが、三猿金泉録という江戸時代の終わり頃の書物です。この名著は、相場の極意を伝授することを目的に、当時活躍した大坂堂島の米相場師・牛田権三郎によって書かれました。

    その序文に題名の三猿のことが載ってます。これをJ_Coffee流に意訳してご紹介しましょう。

    三猿とは、すなわち「見ざる、聞かざる、言わざる」のことです。

    見ざるの極意  
    相場の暴騰(例えばバブル)をても、これに心を奪われては、いけません。
    常に心を平静にして、逃げ売りを考えなさい。

    聞かざるの極意  
    相場の暴落をいた時、これに心を奪われては、いけません。
    常に心を平静にして、果敢に買うことを考えなさい。

    言わざるの極意  
    情報を得ても、人にってはいけません。
    人の心を惑わすだけです。自分だけの秘密にしなさい。
    (つまり、このサイトのやってることは、だめだということです。)

    三猿金泉録の基本理念も逆張りにあるようです。参考までに原文も紹介します。

    三猿とは、見猿、聞猿、言猿の三なり。

    眼に強変を見て、心に強変の淵に沈むことなかれ。
    ただ心に売りをふくむべし。

    耳に弱変を聞きて、心に弱変の淵に沈むことなかれ。
    ただ心に買いをふくむべし。

    強弱変を見、聞くとも人に語ることなかれ。
    いえば人の心を迷わす。これを猿の秘密なり。

    ◆◆ちなみに、私は高校の時、古文は一番苦手で赤点をとりました。◆◆
    ◆訳のこの部分が変だとかは、勘弁してくださいね。◆

    もどる


    (2000/10/23)
    暗黒の木曜日における
    チャールズ・メリル

    1920年代のアメリカは、鉄鋼産業、自動車産業などが誕生、発展し、繁栄を謳歌していました。チャールズ・メリルは、フロリダ生まれの株のブローカーでした。彼は、チェーンストアのS・S・クレスグ(今のKマート)の長期投資に成功して財産を築きます。 1927年、暴騰していた故郷フロリダの土地バブルが、はじけます。しかし、株は依然として空前の値上がりし続けます。

    チャールズ・メリルは誰よりも早く異変に気づき、株の暴落を確信します。

    1929年2月、チャールズはすべての有価証券を売却します。そして、カルビン・クーリッジ大統領に、投機をやめるように演説してほしい、と頼みました(もちろん、無駄でした)。 彼のえらいところは、多くの顧客を説得して、株を売却させたことです。

    1929年10月24日(暗黒の木曜日)の朝を迎えます。寄り付きは、平常どおり。やがて、売りが優勢になり、午前11時、誰もが未経験の大暴落が始まります。 午後になると、証券関係の有力者が、株の買い支えをするとの情報が流れ、株価はかなり戻します。何日かの小康状態。

    そして、同月29日(悲劇の火曜日)、再び大暴落。追証を払えない多くの投資家が、自殺に追い込まれます。その後10年以上、株価の現状復帰は、なかったのです。

    一方、チャールズ・メリルは、暴落の予言者として、一躍有名となります。

    「株式投資を一部のプロから、大衆に開放したい。ウォール・ストリートをメイン・ストリートに」というのが、チャールズの願いでした。 1940年、彼は目的を達成しようと、「大衆のための証券会社」をつくります。

    この会社は、アメリカで最大の証券会社に大発展します。

    ◆◆暗黒の木曜日の予言者、チャールズ・メリルは、◆◆
    ◆日本でもお馴染みの「メリル・リンチ」の創業者になったのです。◆

    もどる


    (2000/11/27)
    今紀文、鈴木久五郎の夢(前編)

    明治時代の最も相場師らしい人といえば、鈴木久五郎が挙げられるでしょう。

    彼の祖父は、酒造業で成功し、孫達は鈴木銀行という資本金50万円の小さな銀行を設立します。 1901年、鈴木銀行の東京支店が新設され、鈴久は、兄の頭取の命令で初代支店長になります。

    1904年、日露戦争が始まります。
    彼は、集めた預金を株に投資しようと決心します。

    鈴久は、日本の勝利を信じ、日本精糖、郵船、東株などを大量に買い集めます。 1905年5月、日本海海戦の勝利により、株価は、いっせいに暴騰。

    1905年6月9日、日露休戦。8月29日講和条約が成立します。
    9月5日、勝利したにもかかわらず賠償金が取れないことに、不満を抱いた民衆が暴徒化、徳富蘇峰の国民新聞社(政府よりだった)を襲撃します。 この日の株価は、大暴落。鈴木銀行は、100万円の損害を出したと新聞に書かれ、取り付けにあいます。
    鈴木一族は、親戚や高利貸しから資金を借りて、この危機をしのぎます。

    「日本の実力からすれば、この講和は大成功。
    国民もこの事実に気づき相場は、反転する。」
    と鈴久は、読んでいました。

    彼は、安い先物を買い増します。

    しばらくすると出征兵士の凱旋、提灯行列、満州の利権への期待などで、日本人の気持ちも前向きになります。彼の読みどおり、株価は暴落前の水準まで回復したのです。

    それから、まもなく、鈴久は千載一遇の幸運をつかみます。

    東京市外鉄道、東京電車鉄道、東京電気鉄道の三社が合併して、「東鉄」が誕生します。 東鉄は、「上野、品川間の料金を3銭から4銭に上げる」計画でした。インサイダー情報を鈴久は、東鉄の重役から仕込みます。

    鈴久は、自分の秘密の仲買店「丸久」を通じ、わずか10分間で東鉄株13000株(平均買値69円)を買い占めます。翌朝、新聞は、「取引所始まって以来の大量買占め」について書き立てます。 その後も東鉄の大商いは続きますが、買い本尊が誰かわかりません。

    2週間後、東鉄の運賃値上げの発表があり、株価は87円に暴騰。

    ◆◆鈴久は、二週間で数十万円を儲けます。◆◆
    ◆ 「天下の鈴久」の名は日本中、津々浦々に知れ渡ります。◆
    ◆次回に続く◆

    もどる


    (2000/11/28)
    今紀文、鈴木久五郎の夢(中編)

    鈴久は、東株(後の平和不動産)の投機、大日本製糖の乗っ取りを成功させます。また、鐘紡の仕手戦では、売り方の中国人・呉錦堂を完膚なきまで叩き潰します。 連戦連勝、向かうところ敵なし。

    遊び好きの性癖も高じてきます。芸者上がりの本妻・お豊と二号・お花だけでは、満足できません。 節分には、紀伊国屋文左衛門の真似をします。裸の半玉(芸者の見習い)を買い集め、豆のかわりに金を撒き、口で拾わしたそうです。

    この事件は、新聞記事となり、鈴久は「今紀文」と呼ばれるようになります。鈴久が成功した原因は、本人の努力もありますが、歴史的な幸運に恵まれたのだと思います。

    1906年(明治39年)は、株式の暴騰が続き、
    日本中が、日露戦争後のバブル景気に酔いしれます。

    彼は、不動産投資にも積極的で北海道、秩父、飛騨、美濃に6万町歩の山林を購入します。 将来の埋立地になるとの思惑で、羽田と州崎の埋め立て予定地(当時は、単なる海岸)を40万坪も手に入れます。

    そして、政治家・犬養毅の紹介で革命家・孫文が会いに来ます。
    孫文は、満州人の国家・清を倒して、漢人の国家を興そうと資金を集めていました。
    「革命は、株投機と似ています。20年間革命に捧げている私は、鈴木久五郎さんの気持ちがわかります。」
    孫文と鈴久は、意気投合します。

    孫文の夢に共鳴した鈴久は、10万円(今の価値で10億円程度)の革命資金を寄付します。

    向島の花月花壇が売りに出されます。庭園数千坪、豪華絢爛、贅をつくした建物を鈴久は気に入り、12月に購入します。 大がかりな改装を計画して、来春にはここに住めるのです。

    しかし、多く の相場師に過酷な運命をもたらす、
    1907年(明治40年)の正月がついに巡ってくるのです。

    そんなことは、露も知らず、おとそ気分の鈴久は、新橋のお気に入りの芸者数十人にお年玉として、時価700円(今の価値で700万円)の東株の株券をばら撒いていたのです。

    ◆この頃の鈴久の資産は、500万円とも1000万円とも言われていました。 ◆
    ◆明日に続く◆

    もどる


    (2000/11/29)
    今紀文、鈴木久五郎の夢(後編)

    1906年末、実体経済は、すでに不況に突入していたのです。しかし、株価の狂ったような上昇は続き、誰にも止められません。

    1月8日、野村徳七の「相場は、狂せり」の警告が新聞に載ります。皆が無視して、株価の上昇は続きます。
    1月18日、あかぢ貯蓄銀行の新東株大量売りをきっかけに、相場の流れは停止します。

    1月21日、株式は、全面安。ガラがはじまります。しかし、それは、序曲にすぎなかったのです。

    1907年(明治40年)、大阪株式取引所株は、年初の775円から、
    年末にはたったの92円と暴落しました。年間暴落率は、空前絶後の88%です。

    日露戦争後のバブル崩壊は、おなじみの平成のバブル崩壊よりも、
    遥かに劇的な落ち込みだったのです。

    この暴落は多くの相場師たちを選別して、その運命をかえました。

    売り方の野村徳七岩本栄之助 は、巨万の富を築きます。また、福沢桃介 は、早めに全株を売り切り、実業家への転進を図ります。 彼の弟分の松永安左エ門は、買い方にまわり、60万円の全資産を失います。

    我が主人公、鈴久は、強気の一辺倒で買い方にまわります。

    日露戦争の講和の時、苦しい状況を逆転させた成功体験があだとなったのです。

    たちまち、資金は枯渇します。6万町歩の山林、州崎の埋め立て予定地、一度も住めなかった花月花壇などを換金して、買い支えますが、売り方の餌食となります。 明石町の本宅、亀島町の二号宅もついに人手に渡ります。本妻・お豊は、愛想をつかせ出て行きます。

    全財産を失った鈴木久五郎は、お花と家賃4円50銭の巣鴨のみすぼらしい借家に移ります。

    さて、それから五年後、辛亥革命を成功させた中華民国前大統領・孫文が来日します。

    国賓の孫文は、無一文の恩人・鈴久をホテルに招き、最高の礼を尽くしもてなします。
    「昔、ご恩になった御礼がしたいのですが」と孫文は話を切り出します。

    天下の鈴久は、ここで相場師の意地をみせます。
    本当は金の無心をしたい気持ちをぐっと抑え、孫文に言い放ったのです。

    「もう直ぐ、子供が生まれます。あなたのお名前の一字を賜りたく存じます。」

    ◆境遇を知る孫文は、深く感銘を受けます◆
    ◆◆偉大な革命家を名付け親に持つ娘、文子が生まれます。◆◆

    もどる


    (2000/10/18)
    ニック・リーソンと
    阪神淡路大震災

    ベアリング銀行は、古い歴史を誇るイギリスの銀行です。1986年サッチャー首相は、金融ビッグバンを断行しました。規制が緩和され、生き残りをかけた熾烈な競争が始まります。こうした状況下で、シンガポールに同銀行の希望の星が登場します。

    シンガポール支店で、ベアリング銀行の利益の20%を弱冠27歳で稼ぎ出したニック・リーソンは、天才的なトレーダーでした。彼は、日経225先物取引、日経225オプション取引を得意としていたのです。

    そんな、彼が、部下の仕事のミス(売りと買いを間違えた)を隠すため2万ポンド(約400万円)の裏帳簿に手を染めてしまいます。1994年8月以降ニック・リーソンは、曲がりだします。そして、同年末には、裏帳簿の損失は340億円に拡大してしまいます。

    1995年1月阪神淡路大震災が起こります。

    この頃の平均株価は、約19000円でした。さて、2ヶ月後の平均株価は、いくらになるでしょう?

    被害の大きさから、株は下落するかもしれません。あるいは、復興需要から株価は上昇するかもしれません。

    ニック・リーソンは、株価は両者の綱引きで変わらないと信じました。しかも、先行き不安からオプション料は跳ね上がります。彼の頭脳に、ひらめきが走ります。

    相場師ニック・リーソンは、3月の第二金曜日の日経平均株価が18500以上19500円以下の範囲に収まることにすべてを賭けました。
    (難しい言葉でいうと、18500円のプット・オプションを売り、19500円のコール・オプションを売ったのです。)

    この範囲に収まれば、これまでの損失を全て取り戻せるのです。 ところが、震災の不幸なテレビを毎日見ていた、日本人の購買意欲はなくなり、株価は急落します。

    彼は、無謀にも先物を買い支えますが流れは変わらず、日経平均は16000円に暴落してしまいます。 18500円と16000の差額は、すべてベアリング銀行が支払わなければなりません。

    ◆◆損失は、1500億円に膨らみ、名門ベアリング銀行は倒産します。◆◆
    ◆ 彼が、日本にいたら株価が下がることに、途中で気が付いたと思います。◆
    ◆◆(参考文献)「
    私がベアリングズ銀行をつぶした」  ニック・リーソン著  新潮社◆◆

    もどる


    (2000/10/26)
    ベンチャー・キャピタルの
    錬金術師、ジョン・ドウアー

    アメリカのIT企業の成長を支えているのは、ベンチャー・キャピタルだといわれています。その中でも最大のものが、クライナー・パーキンス・コーフィールド&バイヤーズ(以下KPCBと略す)です。 KPCBは、単に資金を提供するだけではないのです。技術者しかいない新興企業に、ヘッドハンティングした経験豊富な経営者を送り込みます。

    KPCBの20人いるチーム・パートナーの一人にジョン・ドウアーという人物がいます。 彼は、ベンチャー・キャピタルの関係者の中で最も多くの富を稼いだ男です。次に挙げるのは、皆さん良くご存知の企業ばかりです。

    サン・マイクロシステム、AOL、ネットスケープ、アマゾン、エキサイト、アットホーム

    黎明期に、これらの企業の株式への投資を取り仕切ったのが、ジョン・ドウアーです。 KPCBは、12億ドルの投資を新興企業に対し行い、現在のそれらの企業の時価総額は、800億ドルになりました。実に、資産を67倍に増やしたのです。

    KPCBは、日本企業の系列を理想とした、強い結びつきを投資した企業の間で構築しました。彼らは、この関係を「KPCBケイレツ」と日本語で名づけました。

    エキサイトが、インフォシークを蹴落とし、世界第二位のポータルサイトになれたのは、ネットスケープとの提携のおかげです。 アットホームは、優良企業エキサイトを買収し、未来が開けました。そして、AOLは、マイクロソフトに対し劣勢なネットスケープを買収したのです。

    この他、無数の買収や提携の黒幕がジョン・ドウアーなのです。彼によって送り込まれたCEOは、彼を中心にネットワークを構成しているのです。 投資企業のCEOを金銭的に支援するKPCBの制度には、「ザイバツ」という日本語が使われているそうです。

    (参考文献)「インターネット・バブル」  アンソニー・B・パーキンス、マイカル・C・パーキンス著 
    日本経済新聞社

    ◆KPCBの最大のライバルは、マイクロソフトだといわれています。◆

    ◆◆最近、マイクロソフトのニューメディア分野を率いていた副社長が同社を辞め、◆◆
    ◆◆KPCBに 支援された新企業のトップになるらしい、との記事が出ていました。◆◆
    ◆こうした背景がわかると、この記事、理解し易いですね。◆

    もどる


    (2000/11/7)
    伝説の相場師
    W.D.ギャンの生涯

    W.D.ギャンは、1878年6月7日テキサス州の綿花栽培の農家に生まれました。ギャンの母親は、狂信的なメソジストで、その影響で彼は、幼い時から聖書に没頭します。 彼は、完全主義者で、聖書の隅から隅まで熟読を繰り返し、イエス・キリストの真理を究明しようと努力します。

    そして、この手法は、彼の投資手法に応用されました。聖書が過去のデータになったのです。

    例えば、小麦相場。彼は、過去100年分のデータを集め分析しました。 彼は、連続上昇の記録を調べました。2ヶ月連続上昇107回、3〜4ヶ月連続106回、5〜6ヶ月連続47回、-----、10ヶ月連続上昇2回(1881年と1924年)。
    季節要因では、何月に高値になり、何月に安値になるか。凶作の時はそれがどうずれるのか。
    コーンが小麦より高い時は、コーン相場は、どうなるのか。

    例えば、株式相場。彼は、仕手筋の市場操作のやり方を調査するために、9ヶ月にわたりニューヨークのアスター図書館、ロンドンの大英博物館に通い、1820年からの証券取引の記録をすべて調べます。 そして、E.H.ハリマン氏が行ったユニオン・パシフィック株などの株価操作を研究し、儲ける自然法則をついに発見します。

    彼は、株式相場より、商品相場のほうがより得意でした。(テクニカル分析に優れた人は、すべてあてはまります。)

    ギャンは、過去の中に、未来の値動きを見つけるのです。
    そして、過去を徹底的に洗い出して、極めること。
    これが、彼の主張する「サイクル論」の骨子だと私は、信じます。

    彼は、生涯、勝率8〜9割を維持します。
    そして、「5000万ドルの遺産」と「ギャン理論と言う投資家のバイブル」を残して、78歳で神に召されました。

    (参考文献) ギャン理論 ジョージ・マクローリン 青柳孝直 総合法令
    (株に関する記述は、1909年12月号のWall Street Journalの前身誌に出ているそうです。)

    抽象的すぎて、良くわからない?
    ギャン理論の詳細は、膨大すぎて書ききれません(私も素人だし能力不足)。

    ◆◆替わりにギャン直筆の、「ギャンの相場に関する28ヶ条(前編)」 ◆◆
    ◆という文章を明日発表します。 ◆
    ◆具体的で参考になりますぞ◆

    もどる


    (2000/11/5)
    辣腕家ボウスキーの蹉跌

    私が、ボウスキーの名を初めて聞いたのは、80年代前半の頃(正確には覚えていません)だったと思います。

    経済理論家で、優れた証券アナリストという新聞の紹介でした。しかし、彼の本業は、アナリストではなく、かなり特殊な分野に属する株式投機家でした。

    アイバン・F・ボウスキーの父親は、ロシアからアメリカに移民し、苦労のすえレストランを持ちました。 息子ボウスキーは、何でもできる子供でした。彼は、若くしてイランで弁護士、税理士の資格、ウォール街で証券アナリストの資格をとりました。 彼は、難解な本を書いた経済理論家でもあり、多くの株価の行方を当てているようです。

    しかし、彼の本職は、リスクさや取り仲買人といわれる商売だったのです。

    彼の得意としていたのは、敵対的な企業買収が行われる時、
    企業側と買収側の間隙をつきキャスチングボードを超える株を買い占めるという手法です。

    買占め側と企業側を競わせて、高い側に持ち株を売却するのです。

    テキサコ石油がゲティを買収した時には5000万ドル、テッド・ターナーがCBSの買収を仕掛けた時は1億5000万円を儲けたという噂です。
    もちろん、失敗もあります。乗っ取り屋ブーン・T・ピケンズがフィリップス石油と和解して株を売り払ったときは、持ち株を売り損ねて4000万ドル以上の損害を出しています。

    この商売、買収資金や防衛資金を提供するジャンクボンド関係者の情報が不可欠ですね。

    ◆◆1986年末、ボウスキーは、インサイダー情報を得た罪で告発され、◆◆
    ◆◆彼の名声は地に落ちてしまいます。◆◆

    ◆ これを契機に、ジャンクボンドの帝王マイケル・ミルケンにも捜査が迫ります。◆

    もどる


    (2000/10/19)
    ビクター・ニーダーホッファー
    の栄光と挫折(前編)

    ビクター・ニーダーホッファーは、カリフォルニア大学バークレイ校の助教授をやめて、ファンド・マネイジャーになり成功をおさめた「ウォール街のスーパースター」です(1976年のフォーブスの評価)。

    彼は、スカシュの世界ランキングが第二位のスポーツマンでもあります。 どんなに不利な状況でも勝負をあきらめず、相手の弱点を一瞬で見抜き、逆転に成功する彼のスカッシュは、彼の投資手法と共通点があるといわれています。

    彼の家には、豪華客船タイタニック号の絵画が何枚も飾ってあります。「投機に失敗して、沈没しないように」と毎日自分に戒めるための絵だそうです。

    ビクターにとって最も愛着が深い思い出の投機は、1994年に行った円相場に際してのものです。 この年、円は急騰して、初めて100円を突破します。世界中のトレーダーが円相場の行方に注目します。ビクターは、最初円安に戻るほうに賭け投資資金の25%を失いますが、直ぐに更なる円高を見抜き、方針を変更します。

    ビクターは、2日間まったく眠らずに、モニター画面の前で食事をとります。勝負は、3日目にはいりました。損失は、すでに取り戻していました。彼は、疲れた体に鞭打って最後の力を振り絞り、膨大な金額の円を買い集めたのです。10秒間隔で円相場のチェックを続けます。

    96円10銭、95円50銭、95円ーー

    その瞬間ビクターは、全ての円を売り抜けました。投機は、空前の大成功でした。

    さて、それから、2〜3分後。モニター画面を見てビクターは、あっと叫びました。

    円は、なんと97円まで暴落していたのです。 10秒ごとのチェックをしなかったら、逆に破産していたのです。

    ◆◆ビクターは、ソファーに倒れ、勝利の女神とともに、◆◆
    ◆深く心地よい眠りにつきました。◆

    ◆ NHK特集「マネー革命」を参考に書きました◆
    ◆◆
    後編に続く◆◆

    もどる


    (2000/10/20)
    ビクター・ニーダーホッファー
    の栄光と挫折(後編)

    1997年7月タイで通貨危機がおこります。タイへの投資に積極的だったビクターは、逃げ遅れ2000万ドルの損害を出します。マレーシア、インドネシア、韓国と通貨危機は、疫病のように広がります。

    ずっと一本調子で値上がりしていた、ニューヨークの株価も10月に入り乱高下を繰り返します。そして、1997年10月27日、運命の日が巡ってきます。

    この日、株価は朝から大暴落します。あまりの売り圧力の強さに午後2時30分、取引は一時中断されます。

    ビクターは、経験を思い出し、群集の心理を冷静に読んでいました。
    「この下げは、恐怖心からでたもので、必ず反騰する。」

    ビクターは、株価の反騰にすべてを賭けました。具体的には、S&P500指数先物のプット・オプションを大量に売ったのです。 30分後、取引再開、株価は無常にも下がり続けます。7.24%の暴落。一日の下落率としては、ブラック・マンデー以来の大暴落でした。

    ビクターには、自信がありました。株は、明日必ず上がる。それまでの辛抱だ。

    ところが、ここで誤算が生じます。取引金額が多すぎたために、5000万ドルの追証が発生してしまったのです。期限は、明日の朝です。

    その夜、ビクターは顧客や知人を訪ね、高利の謝礼で資金を得ようと奔走します。

    株の暴落は、連鎖して地球を一周します。東京、香港、フランクフルト、ロンドン。普段なら協力的な友人も、暴落の連鎖を知り難色を示します。

    ついに、翌日の朝、ニューヨーク市場は開かれます。寄り付きは、売り気配でした。状況を確認後、ビクターの建玉は、すべて強制的に整理されます。

    タイタニック号は、氷山に激突、ビクターは破産します。

    さて、午前10時になりました。

    ◆◆株価は下げ止まり、一転、狂ったように暴騰します◆◆
    ◆ビクターの売ったプット・オプション価格を遥かに超えて◆

    ◆◆ 天才ビクターの読みは、ピタリ的中していたのです。◆◆

    もどる


    (2000/11/18)
    空売り王、
    ジェシー・リバモア

    ジェシー・リバモアは、1877年貧しい移民の子として生まれました。証券会社の黒板書きから身をおこし、多くの投機に成功、1920年代には、資産600万ドル、5件の別荘を持ち「ウォール街のキング」と呼ばれていました。彼は、あの歴史的事件の時、既に大物相場師だったのです。

    彼は、1929年10月のニューヨーク株の大暴落で空売りで、数百万ドルも儲けました。

    この時の彼の読みは、手記からわかるそうです。

    リバモアは、情報を重視していました。各証券所に専用回線を敷き、担当者を張り付けていました。パリやロンドンの相場も国際電話で知っていました。

    当時投資家は、ブローカーズ・ローンで資金を借りて、株を買っていましたが、この額が80億ドル(9年前の8倍)にも達し、7月中央銀行も警告を出しました。彼は、暴落のタイミングを見守ります。

    1929年9月26日、イギリス中央銀行の金利が5.5%から6.5%に引き上げられ、アメリカの金利(6%)と逆転します。 アメリカに流入していたヨーロッパの資金が逆流して、ロンドンに逃げ出すはずです。

    決定的なチャンス到来です。

    ジェシー・リバモアは、以上の読みから株の大暴落を確信して、全力で空売りを仕掛けます。投機家としては、天才です。

    しかし、彼が、空売りしていることは、アメリカ中の投資家が知っていました。

    暗黒の木曜日の朝、不安にかられた多くの投資家は、リバモアに「空売りを止めろ」との脅迫状を書いたそうです。 リバモアは脅迫に屈せず、その後も信念に従い空売りの上乗せを続けます。

    彼は数百万ドルの利益の代償に、
    財産や仕事を失った多くの国民の恨みをかいました。

    その後、リバモアは、どうなったのでしょうか?

    世間の憎しみを一身に受け、相場師リバモアの勘が狂いだします。
    3000万ドルの損害を積み重ね、破産し、1940年11月ピストル自殺を遂げます。

    ◆◆相場師は、幽霊のような存在であるべきだ。◆◆
    ◆売りの得意な、マスコミ嫌いの
    名古屋の相場師の言葉です。◆

    (2000年10月放送されたNHKの「その時歴史が動いた」を参考にしました。)

    もどる


    (2000/12/3)
    天才トレーダーは、量産可能(タートルズ秘話前編)

    1983年、シカゴの豪邸で二人の紳士が、白熱した議論を戦わせます。

    「優秀な人間を、二人で教育さえすれば、一流のトレーダーを量産できると思うよ」
    と豪邸の主は持論を主張します。

    「いくら僕のコンピューターシステムを使っても絶対無理だね。君のような、特別な才能がなければ、一流のトレーダーにはなれないよ。」
    と招かれた客は反論します。

    二人の紳士の名は、デニスとエックハートです。

    トレーダー養成可能説をとなえた、リチャード・デニスは、数千ドルの元手から2億ドルの資産を築き上げた伝説のトレーダーです。

    不可能説のウイリアム・エックハートは、元数学者でデニスの懐刀(ふところがたな)。先物取引のコンピュータシステムを作り上げ、トレーダーとしても年率60%の利益をあげる天才です。

    「もう100回も同じ議論をしているね。よし、決着をつけるために、賭けをしよう。100万ドルだ」
    「もちろん、受けてたつよ」

    このとき合意された、賭けの内容は、次のとおりでした。

    10人の優秀な人間を選び、システムとルールを教える。
    10人それぞれに100万ドルずつ資金を与える。

    一年後、彼らの資産が、平均で25%以上増えていたら、デニスの勝ち。25%未満ならエックハートの勝ちです。

    ◆◆こうした二人の気まぐれから、彼らの生徒達、◆◆
    ◆有名なタートルズは誕生したのです。◆
    ◆◆ さて、生徒達の成績は?続きは、明日発表します◆◆

    (参考文献) 「
    新マーケットの魔術師―米トップトレーダーたちが語る成功の秘密」 ジャック・D・シュワッガー著

    もどる


    (2000/12/4)
    天才トレーダーは、量産可能(タートルズ秘話後編)

    リチャード・デニスは、計画に従って、ウォール・ストリート・ジャーナルに広告を出し、トレーダーの研修生を募集します。(条件は、トレーダー経験不問。)

    実に、1000人を超える応募が殺到します。書類審査、筆記試験、面接を経て、13人が合格します。

    合格者のトレーダー経験は、1/3がかなり有り。1/3が少しだけ有り。残りの1/3は、全くなしでした。

    例えば、マイケル・カー(後に有名トレーダーとなる)は、投機ゲームの製作を計画していた、ゲームソフトの開発者で、人気トレーダーのデニスの名さえ、知りませんでした。

    デニスとエックハートは、取引システムのノウハウを隠すことなく、全て弟子達に伝授します。 そして、研修が終了すると、それぞれ100万ドルを持たせて、実験を開始したのです。

    一年が経ちました。

    生徒達の稼いだ利益は、25%を大きく上回り、リチャード・デニスは、賭けに勝ちました。

    そして、1984年、新たな10人の募集を開始します。こうして、幸運な23人のトレーダーが誕生します。(その後、募集は行われていません。) デニスは、東洋を旅行した時、亀の養殖されるのを見て、研修生達をタートルズと名づけることにします。

    「新マーケットの魔術師」 の著者は、本を書く準備の際、
    全米で最も成績の良いトレーダー18人のリストを作ったそうです。
    すると、驚くべきことに、その内の8人(44%)までがタートルズでした。

    タートルズが世界中で稼いだ金額は、一説によると200億ドルに達するそうです。

    タートルズがどんなノウハウを使っているのか知りたいですね。
    しかし、研修内容は、絶対に口外してはいけないとの契約になっているそうです。

    元タートルズの書いた「タートルズの秘密」という本も出ていますが、肝心のコンピュータソフトは、手に入らず仲間にはなれませんね。

    ◆本当に優れたソフトは、売らずに相場で儲けて資金を回収するのです。◆
    ◆◆ なお、賭けの金額は、ストーリーの流れで100万ドルと書きましたが、◆◆
    ◆本当は二人だけの秘密だそうです。◆

    もどる


    ホームへ

    MENU