■J_Coffeeの徒然草(3巻)■

---目次---
  • 田中真紀子総理、待望論
  • 悪徳投資顧問企業を斬る
  • 明治維新とイギリス商人グラバーの賭け(前編)
  • 「長銀破綻と株価の動き」に学ぶ(前編)
  • 明治維新とイギリス商人グラバーの賭け(後編)
  • 「長銀破綻と株価の動き」に学ぶ(後編)
  • 電子部品工業界の秋
  • 第4巻
  • 中坊公平と豊田商事
  • ミネベア社長、高橋高見物語(前編)
  • ミネベア社長、高橋高見物語(中編)
  • ミネベア社長、高橋高見物語(後編)

  • (2000/11/12)
    田中真紀子総理、待望論

    雪深い新潟から上京、裸一貫で土建屋を起こし、最後には、総理大臣まで上りつめてしまった今太閤、田中角栄。「決断と実行」をスローガンに、「コンピュータ付きブルトーザー」といわれたこの人物は、戦後最大の政策実行能力を持つ総理大臣だった、と私は評価します。

    田中は、若い時から、議員立法で何十本もの法律を成立させています。日本列島改造論(失敗しますが)という壮大な青写真をつくり、地方を開発しようとします。外交的には、中国との国交回復を実現した功績には、計り知れないものがあります。もし、あの時失敗していたら、その後どうなっていたでしょうか?

    1973年秋、石油ショックが起こると、アメリカのキッシンジャー特使の反対を押し切り、日本独自のアラブ寄り外交を決断します。1973年クリスマスの日、日本は、アラブ諸国から友好国として認められ、原油輸入削減の緩和のプレゼントを受けます。

    その後、田中は金脈問題で失脚しますが、政治力は拡大し、総理大臣を決めるキングメーカーとして君臨します。

    1976年2月、ロッキード事件が発覚したのは、アメリカの陰謀だ
    との説がありますが、真相かもしれません。

    当時のアメリカは、日本の国益を重視し、独自外交を進めるキングメーカー・田中を警戒していました。ロッキード事件の発端となった、コーチャン発言は不自然ですし、キッシンジャーはユダヤ人なのです。

    田中の汚職は、もちろん否定できませんが、優れた能力と実績も、けっして忘れられません。

    ところで、角栄には、田中真紀子さんという、娘さんがいますね。

    この人、越山会を解散させて、自分の力でトップ当選したところなど、普通の二世議員と違って立派です。 父親譲りの人心収攬術を持っていて、かなり実行力もありそうです。庶民の気持ちにも敏感で、裏切りません。

    ◆◆さて、加藤紘一氏の決起で、がぜん興味深くなった政局。◆◆
    ◆◆誰が総理になっても、株は上がるでしょうが、◆◆
    ◆◆一番株が暴騰するのが、田中真紀子さんですね。◆◆

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    (2000/11/13)
    明治維新とイギリス商人
    グラバーの賭け(前編)

    長崎港を見晴らせる高台の洋館、グラバー邸は、長崎の観光スポットとして有名です。 しかし、この館の主が、どんな人物かを知る人は意外と少ないようです。

    トマス・グラバーは、1859年長崎が開港されると、直ぐに来日して貿易業を営んだイギリス人です。 彼は、最初、お茶を輸出していましたが、幕府、薩摩藩などに蒸気船や鉄砲を売ることに精力を注ぎます。

    彼は、幕府から27門のアームストロング砲の注文を受けていました。70ポンドのアームストロング砲、それは、当時、日本に存在する最強の新兵器でした。

    グラバーは、薩英戦争に敗れ、西洋の近代兵器の重要さに気づいた薩摩の五大友厚と親しくなります。 1864年4月フランスの大物公使ロッシュが赴任します。彼は、幕府支持を鮮明にして、生糸貿易をフランスで独占しようと企てます。 幕府の貿易統制が強化されたら、グラバーの商売は先細りになります。ロッシュと幕府に対する対抗心が燃え上がります。

    グラバーは、商人の身でありながら、
    倒幕側の西南雄藩の王政復古にすべてを賭ける決心をかためます。

    1865年4月アメリカの南北戦争が終結して、大量の(日本にとって)最新鋭の鉄砲が余ります。奇跡のような幸運です。安い価格で、銃を仕入れるチャンスが生まれたのです。

    翌年、坂本竜馬の斡旋で薩長同盟が成立します。 グラバーは、薩摩藩の名儀で、ミニェー銃4300挺、ゲベール銃3000挺、蒸気船一隻を長州藩に供給します。財政難に苦しむ長州藩は、資金を延払いすることをグラバーに頼みます。武力を得た長州藩は、完全に復活します。

    1867年11月、倒幕の勅命を事前に察知した、将軍・徳川慶喜は機先を制して大政を奉還します。

    ◆◆日本の夜明けは、もうまじかです。◆◆
    ◆◆後編は、明日発表、お楽しみに。◆◆

    (参考文献)「
    明治維新とイギリス商人―トマス・グラバーの生涯」 杉山伸也著 岩波新書

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    (2000/11/14)
    明治維新とイギリス商人
    グラバーの賭け(後編)

    1867年1月〜8月、幕府がグラバーに注文した日本初のアームストロング砲が、長崎に到着します。 幕府は、さっそく引き渡しを要求しますが、グラバーは、支払いが完了していないとの理由で、これを引き延ばします。

    さて、1867年12月9日、王政復古の詔勅が下り、徳川慶喜は領土と冠位を献納するように命じられます。 幕府、会津藩、桑名藩の怒りは爆発します。

    翌年正月3日、幕府側は、15000人の兵力を結集し、朝廷に直訴するため、京都をめざします。 迎え撃つ薩長連合軍は、わずか4000人に過ぎません。

    鳥羽街道を進んだ会津藩は、小枝橋で薩摩藩に行く手を阻まれます。火縄銃から進歩のない装備の会津藩は、よく訓練された、圧倒的火力を持つ薩摩の精鋭を突破できません。

    さて、もう一つの戦場では、新撰組が伏見奉行所に本陣を置き、薩長と戦っていました。両軍で一番士気が高かった新撰組は、決死の切り込みを敢行しますが、弾道の正確な薩長のミニェー銃の餌食になります。

    薩長のミニェー銃の弾丸は、ドングリ形で、会津の火縄銃の弾丸は丸型です。
    この違いが、命中率に決定的な格差を生じたのです。

    突然、伏見奉行所の火薬庫が、大爆発をおこします。
    薩摩の大砲が火を吹き、
    遥か遠方から、敵の火薬庫に、正確に命中させたのです。
    この一発で、伏見の新撰組は、総崩れとなります。

    鳥羽では、錦の御旗が翻ります。この瞬間、薩長軍は官軍に、幕府軍は賊軍になります。薩摩の夜襲が成功して、幕府軍は敗走、大坂城に逃げ帰ります。

    徳川慶喜は、会津藩主・松平容保を引き連れ、将兵を置き去りにして、船で大坂城を脱出、江戸に逃げ帰ります。

    戊辰戦争の大勢は、これで完全に決定してしまうのです。

    グラバーの輸入したアームストロング砲は、官軍に渡り、会津での城攻めに使用されたようです。

    ◆◆さて、その後のグラバーは、どうなったでしょうか?◆◆
    ◆◆ グラバーは、高島炭鉱を開発して事業家に転進します。◆◆

    ◆武器代金の一部が回収されず、彼の経営者として能力不足もあり、◆
    ◆グラバー商会は1870年倒産します。 ◆
    ◆◆しかし、グラバーが明治維新に果たした役割は、絶大なのものがあるのです。◆◆

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    (2000/11/23)
    電子部品工業界の秋

    不況の日本における優等生、電子部品工業界。今年の上半期は増収増益で過去最高の利益を計上するところが、多かったようです。携帯電話、パソコン、その周辺機器、DVDプレーヤー、デジタルカメラなどの旺盛な需要に差さえられ、設備投資にも積極的でした。

    しかし、秋が深まるにつれて異変が起きているように、私には思えます。

    まず、携帯電話。世界の1/4のシェアを持つノキアの最近の生産調整にショックを受けた、部品関係者は多いようです。

    7月頃、部品が足りないことが有名になり、ダブル発注などの仮需が生じていたようです。供給が足りてくると、一転、在庫調整が深刻になります。 韓国の携帯に対する補助金打ち切りの影響も大きいようです。しかし、成長商品の携帯は、来年早々には、立ち上がってくるかもしれません。

    他のセットはもっと深刻です。 一番の問題は、中国を中心とした海外へセットや部品のシフトが今後加速されることだと思います。シフトを防いでも単価の引き下げが強烈です。

    勤勉で、人件費の比較的高い台湾、韓国、シンガポールも付加価値を求めて、日本が独占していた領域に挑戦しつつあります。

    彼らに追い上げられる日本は、常に新しい付加価値の高い新部品を開発しないと生き残れない、極めて過酷な環境におかれているのです。売れ筋の開発ができない企業は、赤井電機のように倒産するのです。

    ◆◆アルミ電解コンデンサの需要にも、10〜11月から陰りが見えます。◆◆
    ◆◆先行きについては、意見は分かれていますが、◆◆
    ◆私は、ニッポン高度紙工業、昨日、売りました。◆
    ◆◆時期がきたら、買い戻そうとも思っています。◆◆

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    (2000/11/30)
    中坊公平と豊田商事

    「純金を買って当社に預ければ、高利の利息がつきます。」という手口で、豊田商事は、お年寄りを中心に3万人から、2000億円の現金を騙し取りました。 詐欺師達は、一人暮らしの孤独な老人の話し相手になり、家事を手伝い、ついには虎の子の預金を奪ったのです。(豊田商事事件

    主犯の永野一男会長は、テレビの放映中、自宅への侵入者に刺殺されました。

    この事件の管財人を引き受けたのが、後に住専の後始末をして有名になる中坊公平さんです。

    中坊さんが調べた時、豊田商事の金庫には、現金970万円と純金200gしかありません。
    それでも、中坊さんの努力で豊田商事事件の配当率は、10%にも達したそうです。

    中坊さんは、どのようにして、資金を回収したのでしょうか?

    豊田商事は、全国の一等地に、敷金を払いビルを借りていました。契約書によれば、借り手が倒産した場合、その後の不払いの家賃は、敷金から充当されます。 法的には、敷金は回収できそうにありません。

    しかし、豊田商事が詐欺集団と知っていながら、
    相場より高額の家賃をとって儲けている大家が多かったのです。
    彼らは、詐欺に協力したという後ろめたさを感じていたのです。

    中坊さんは、この点を巧みにつき、ほとんどの敷金を回収します。

    また、豊田商事は、ゼネコンにゴルフ場を造らせていました。ゼネコンは、詐欺師と知って受注するわけですから、前受け金をもらい、一方的に有利な、えげつない契約を結んでいます。

    法的には勝てる可能性が高くても、問題がこじれて大手ゼネコンの名が新聞に公表されたら困るのでしょう。結局、かなりの金額が戻ってきます。

    また、国税庁も豊田商事の社員が収めた所得税を返還してくれたそうです。

    ◆◆中坊さんの信念は、「六法全書や前例」ではなく、◆◆
    ◆◆「人間誰もが感じる正義感や常識」に支えられている気がして、◆◆
    ◆◆ うれしくなります。魅力ある人ですね。◆◆

    (参考文献)
    中坊公平の「人間力」 中坊公平・佐高信著 徳間書店

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    (2000/12/5)
    ミネベア社長、
    高橋高見物語(前編)

    1959年、高橋高見が父の会社ミネベア(当時は、日本ミネチュアベアリング)に入社した時、同社は従業員55人、売上4000万円の中小企業でした。彼は、毎日4時間しか眠らず、企業買収を繰り返すことでミネベアを大企業に育てあげました。

    技術や人材は豊富だが、業績の良くない赤字会社を安価に買収(M&A)して、立て直した後に吸収合併する。これが、ミネベアの手法でした。

    新興通信工業(東証二部、ひずみ測定器)、東京螺子製作所(東証二部、ねじ)、新中央工業(防衛関連機器)、大阪車輪製造(大証二部、自動車部品)、北斗音響(スピーカー)、ハタ通信機製作所(トランス)、帝国ダイキャスト

    これらの会社は、1970年代ミネベアに買収されました。
    また、アメリカでも、ベアリング工場や電子機器メーカーを買収しています。

    ミネベアは、生産拠点を逸早くタイに移していました。軽井沢工場からは、200人の技術者を海外に派遣していました。 しかし、海外勤務を希望する技術者はあまりいません。 急膨張したミネベアには、メカトロニクスの技術者が不足していました。

    高橋高見は、東京と軽井沢工場の間を自家用ヘリコプターで行き来します。

    ある日、上空から、下諏訪の三協精機製作所が眼にとまりました。三協精機は、売上1000億円、オルゴールから始まり、小型モーターや磁気記録装置を製造していました。

    技術力はあるが、経営不振で力が発揮できない会社。同社は、ミネベアのミニチュア小径ベアリングを使用して、小型モーターを製造するお客様でもあったのです。 軽井沢と下諏訪はヘリコプターでわずか十数分、買収するには、理想的な会社でした。

    高橋高見は、過去最大の獲物に襲い掛かる決心をかためます。

    1984年夏から、彼は、ヨーロッパで三協精機の転換社債を密かに買占めます。転換社債は、株よりも価格が値上がりしにくく、安価に購入できるのです。 高橋は、200億円の資金を投入、1400万株(19%のシェア)の三協精機株(平均買値1400円)を手に入れます。

    1985年6〜7月、高橋は、三協精機の山田六一社長と会談して、合併の申し入れをしますが、不調に終ります。 高橋は、三協精機の株の買占めをマスコミにリーク、1985年8月15日新聞に記事が載ります。 ミネベアは、ユーロ市場で2億ドルの企業買収資金枠を準備していました。

    「わが国初のTOB(株式公開買付)も辞さない。」
    ミネベアの決意を表明します。

    ◆◆三協精機の株は、暴騰、その後1700円になります。◆◆
    ◆◆ 山田一族の持ち株は、10%にすぎません。絶対絶命のピンチ。◆◆

    ◆◆ところが、8月26日、高橋高見が夢にも思わなかった、◆◆
    ◆◆大事件が起きてしまうのです。◆◆
    ◆◆続きは明日発表します。お楽しみに。◆◆

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    (2000/12/6)
    ミネベア社長、
    高橋高見物語(中編)

    M&A(企業買収)の達人・ミネベアを買収しようとする外国企業が、突然登場します。

    1985年8月26日、英国のグレン・インターナショナル社(ラムスデン会長)と米国のトラファルガー・ホールディング社が、ミネベアの株式、転換社債、ワラントを5000万株分、発行済み株式総数の23%を買い占めたと発表します。
    (オプション取引によるものを除くと、実際は、この時800万株しか持っていないことが、後に判明します。)

    驚いた高橋高見は、三協精機の買占めを中断し、乗っ取り阻止に専念します。

    ミネベアは、私募形式の160億円の転換社債を発行したり、系列の「かねもり」と合併したりして、買占め比率を引き下げます。

    10月25日、トラファルガー社とグレン社は、ミネベア株の一般株主からの、買取条件を発表します。一株900円でしたが、現金は、150円だけ、残りはゼロクーポン債や新会社の転換社債で払うとの内容でした。

    現金比率の低さによる失望感から株は、暴落します。トラファルガー社とグレン社は、市場から安値で1700万株を購入し、買い支えます。これでやっと公表の23%になったのです。

    ところが、二社は、重要なことを見逃していました。

    ミネベアは、防衛庁向けにピストルを製造する事業も行っていました。外国企業がTOBを仕掛けても、国家安全保証の観点から、大蔵省の審査が長引くことが予想されたのです。 オプション契約の期限も近づいてきます。買占め側の苦境は、鮮明になります。

    1986年4月17日、両者の交渉が成立します。ミネベア側は、トラファルガー社とグレン社から、ミネベア株2500万株を620円で買い取ります。

    トラファルガー社とグレン社の平均コストは、700円(円レート200円の時買った)といわれてます。売却した時は、円は高騰して170円になっており、ドルベースの収支は、ほぼトントンだと思います。

    一方、ミネベア側は、本来、三協精機の買占めに使われるべき
    資金155億円を、この時に使いはたします。

    三協精機側は、この8ヶ月を有効に利用します。従業員や取引先を通じ、株を買い安定株主を増やします。労組の協力も取り付けます。ミネベアとの戦闘準備は、整ったのです。

    ◆◆高橋高見は、三協精機の合併問題への取り組みを再開しますが、◆◆
    ◆◆力ずくで買い占める資金がもはやなかったのです。◆◆

    ◆◆しかし、彼は、簡単にあきらめるような男ではありません。◆◆
    ◆◆明日は、完結編です。 ◆◆

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    (2000/12/7)
    ミネベア社長、
    高橋高見物語(後編)

    高橋高見は、19%の筆頭株主・ミネベアから3人の役員派遣を要求しますが、断られます。

    1986年5月7日、高橋は、三協精機の幹部250人の自宅に手紙を出します。

    現状の経営では、海外分業体制の確立が遅れており、円高に対応できないこと。 15年間かけて築いた海外分業体制を持つミネベアと合併すれば、大発展ができること。 手紙は、彼の信念が述べられていました。

    弱小企業には、有効だったこの揺さぶりも、誇り高き三協精機の幹部には、かえって反発をかってしまいます。

    7月31日、高橋は、三協精機の安定株主工作に関連して、3億6585万円の損害を山田社長達3人が三協精機にあたえたとの訴訟をおこします。

    「会社は、従業員や苦労した創業者のものである。」
    という考えが日本では一般的で、

    「会社は、株主のもので、利益をあげない経営者は株主から追放されるべきだ」
    とのアメリカ的な考えは受け入れません。

    高橋は、「やりすぎだ」といわれ、経済界や世間から孤立していきます。

    決定的な事件が起こります。

    1987年1月、高橋高見は、突然ミネベアの社長を退きます。
    胃潰瘍の手術のためとのことでしたが、本当の病名は胃癌でした。

    手術は成功し、同年9月会長に復帰します。
    しかし、彼は、癌の再発の可能性を意識します。

    欧米の一流の建築家が設計した、敷地1万3000坪のミネベアの軽井沢ゲストハウス。贅をつくした、350坪の本棟で快気祝いが腹心の幹部達によって開催されます。

    すっかり涙もろくなった高橋は、手塩にかけた育てた我が子のような会社、ミネベアの将来を心配します。 自分がいなくとも、ミネベアが永遠に発展できるようにしなければならない。

    咲き乱れる花と滝を見ながら、ついに高橋は、苦渋の決断をします。

    それから半年後の1988年3月、買い占められた1400万株は、すべて三協精機側に売却されました。

    ◆◆ミネベアの海外の量産体制が整い、三協精機はいらなくなった。◆◆
    ◆◆ マスコミ向けの彼の負け惜しみの弁です。◆◆

    ◆◆ 日本電産の永守重信さん。◆◆
    ◆◆彼は、往年の高橋高見さんと似ていると思うのですが、如何でしょう?◆◆
    ◆◆ 派手なM&A期待してますよ。明日は忘年会で休みます。◆◆

    (参考文献)「
    ビジネス戦記」 朝日新聞ウィークエンド経済編 角川書店

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    (2000/11/15)
    悪徳投資顧問企業を斬る

    今日は、ある投資顧問会社(○山経済研究所)についての悪評を紹介します。この会社の社長は、○山○平という人です。○山経済研究所は、「会社四季報」に、宣伝を載せています(2000年秋号まで確認)。申し込むと株の本を無料でプレゼントするそうです。葉書に、持ち株の銘柄、株数を書けば、無料診断も行ってくれます。

    無料で送られてくる本は、それなりに面白いものだそうです。しかし、それから悪質営業マンの「有料会員になれ」との、しつこい誘いが始まります。多額の持ち株を書いた人に対しては、特にしつこいそうです。

    会員は、ランクが数段に分かれており、上に行くほど高額になり、最高のランクになると何百万も金をとられるそうです。 営業マンは、顧客を上のランクに入れることに全力を注ぎます。

    「光通信を高値で売り推奨して、安値で買い戻させた。(後からなら誰でもいえます)」
    「医者や弁護士中心の100人の特別会員枠が一人だけ余っている。」

    「仕手筋の情報がはいるので、特別会員にだけに教える。」
    「当社は、法人税の納付額が多い優良企業(騙し取った金がそれだけ多いのか?)」

    「ラジオたんぱでも宣伝している。」
    「東海財務局が登録している間違いのない会社」

    「そのうちに当社は、店頭に登録される」

    これらのセールストークで、巧みに高額の会費を騙し取るそうです。大金を取れば、しめたもの。実は特別会員になって推奨した株も、大きく値上がりしない例が、圧倒的に多いようです。

    だいたい、そんな儲け情報があれば、投資顧問などやらず、
    ファンドをつくって、ジョージ・ソロスになれますね。

    ◆◆そんな情報どこで仕入れたかって?◆◆
    ◆◆
    ここの掲示板の内容をまとめました。◆◆
    ◆◆他の投資顧問会社の評判も、わかって参考になりますよ。◆◆

    ◆会社四季報さん、ラジオたんぱさん、広告主を、もっと厳正に審査してくださいね。◆
    ◆マスコミの皆さん、20年間も何故この会社を見逃すのですか?◆

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    (2000/11/24)
    「長銀破綻と株価の動き」
    に学ぶ(前編)

    バブル崩壊後、日経平均株価が12879円と最低になるのは、1998年10月9日です。 この年、市場の注目を最も集めていたのは、経営危機で迷走する日本長期信用銀行でした。

    この年の状況と最近の市場は、何処か似ている、と私は思います。
    今後を占う上で、長銀の迷走はヒントになりそうです。

    後に、いいかげんさが国会で問題になる佐々波委員会の審査を経て、1998年3月、21行に公的資本の注入が決まります。日本長期信用銀行も1766億円の資本増強が決定し、株価は、373円まで値上がりします。

    しかし、バブル崩壊で深手を負った長銀にとって、この金額では、焼け石に水だったのです。

    長銀は、高橋治則のイ・アイ・イ・インターナショナルなどに直接、土地関連融資を行っていました。
    最も致命的だったのは、ノンバンク5企業を通じ土地を担保とした、返せる見込みのない融資を拡大してしまったことです。

    5企業とは、日本リース(歴代社長が、長銀出身の日本2位のリース会社で、不動産融資が多かった)、日本リースオート、ファーストクレジット、エヌ・イー・デー、日本ランディックで、長銀の融資額は、合計で6195億円に達していたといわれています。

    6月5日、月刊誌「現代」が「長銀破綻で戦慄の銀行淘汰が始まる」とのスクープを発表します。同誌が出した全国紙の広告の効果で、長銀株は、この日199円から181円まで暴落します。

    長銀は、現代(講談社)を告訴しますが、他のマスコミも誤報も含め、連日、長銀関係の記事を掲載します。18日ムーディーズが、長銀の劣後債格付けをBa1からB1へと3段階も格下げします。26日の株価は73円まで暴落します。

    大蔵省、日銀は、長銀をどこかに合併させようと、必死の努力を重ねます。

    6月26日(金)午後9時、日本銀行の本店で、住友信託銀行の高橋社長が記者会見して、
    来年4月を目標に、長銀を救済合併する計画を発表します。
    そして、合併の合意は、今年9月末までになされるとのスケジュールでした。

    週明けの29日(月)、長銀株は、救世主の登場を歓迎して、24円高の97円まで暴騰します。

    ◆◆「危機は去った」と皆が喜び合いました。◆◆
    ◆◆しかし、平穏は長くは続きませんでした。◆◆
    ◆◆この続きは明日発表します。◆◆

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    (2000/11/25)
    「長銀破綻と株価の動き」
    に学ぶ(後編)

    1998年7月12日、自民党が参議院選挙で惨敗。法案の成立に、野党の合意が必要となります。

    98年7月13日、金融監督庁の長銀に対する緊急検査が始まります。7月16日、住友信託銀行は、アーサー・アンダーセン等の監査法人に、長銀の資産の検査を依頼したことを発表します。 株式市場では、いろいろな憶測が飛び交います。

    長銀は、債務超過に陥っている?
    住友信託銀行は、金融監督庁の検査を信用していない?
    合併は、破談になりそうだ?

    満期を迎えた長銀の金融債を継続する人は、半分以下となり、一月に2000〜3000億円のペースで資金が流出します。政府系金融機関の預金と日銀がこれを支えます。

    8月11日、株価は、37円に暴落します。
    8月20日、小渕首相が住友信託銀行に合併の要請をします。

    8月21日、長銀は、7項目からなる再建策を発表します。
    (7500億円の不良債権処理、現役員総退陣、本社ビル売却、700人削減など)
    株価は、急回復70円台まで戻しますが、すぐに反落します。

    8月25日、金融再生関連法が審議入りしますが、与野党間でまとまりません。混迷は、ますます深まります。
    9月27日、長銀系最大のノンバンク日本リースが、2兆1803億円の負債をかかえ会社更生法の申請を出します。

    このショックが効いたのか、自民・民主・平和改革の3会派は、金融問題でようやく合意します。

    10月5日 金融不安の高まりは、セーリング・クライマックスを生み出し、平均株価は、13年ぶりに13000円割れ。8日、住友信託銀行は、合併交渉を打ち切ります。翌日平均株価は、12879円を記録します。

    10月16日 自民、公明、自由の三党により、
    公的資金60兆円の破綻金融機関への資本注入が可能な
    金融早期健全化法の修正法案が成立します。

    金融危機を防ぐしくみが、こうして完成したのです。

     しかし、長銀は、この公的資金が注入されることなく、10月23日破綻後処理が申請され、国有化されます。
    株券は、紙くずになったのです。
    12月、経営危機が深刻な日債銀も、同様の破綻後処理がなされます。

    ◆◆これで、すべて「あく抜け」。安心感から日経平均株価は反騰し、◆◆
    ◆◆1999年3月末には、15386円まで回復します。◆◆
    ◆◆金融危機は、ひとまず?去ったのです。◆◆

    ◆◆長銀のように長期間混迷する、赤字の大企業。今後も出てきそうですね◆◆

    (参考文献
    長銀破綻―エリート銀行の光と影 須田慎一郎著 講談社文庫)

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