■相場師列伝(第5巻)■

---目次---
  • ジョージ・ソロスvsイングランド銀行(後編)
  • 南北戦争とハッチンソンの賭け(前編)
  • 南北戦争とハッチンソンの賭け(後編)
  • スエズ動乱と二人の相場師(前編)
  • スエズ動乱と二人の相場師(後編)
  • 明暦の大火と河村瑞賢(前編)
  • 明暦の大火と河村瑞賢(後編)

  • (2001/9/22)
    ジョージ・ソロスvsイングランド銀行
    (後編)

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    さて、1992年9月16日、ラモント蔵相は、切り札を出します。
    午前11時、公定歩合を12%に引き上げたのです。

    ドラッケンミラーは、まったくひるまず、さらに大量のポンドを売り浴びせます。 ポンドの下落は、止まりません。

    それから、わずか3時間後・・・・・・・・

    午後2時15分、蔵相は、怒りの表情で、公定歩合を何と15%に引き上げます。
    関係者は、英国政府の不退転の決意に驚きます。

    ポンドは、上がり始めますが、直ぐにその勢いは衰えます。
    そして、再び自然落下を開始します。

    イングランド銀行のポンド買支えに投入した金額は、150〜200億ポンドに達したそうです。 頼みのドイツ連銀は、英国のために最後まで金利を引き下げませんでした。

    二人の読み筋どおりです。
    投機筋もソロス側に加担して、ポンド売りが一気に進みます。

    ・・・・・・・・・・

    「リーン、リーン」

    アメリカ時間午前7時、ソロスは、ドラッケンミラーからの報告のための電話で、目を覚まします。
    「ボス。完勝です。ポンド切り下げです。英国は、ERMから離脱です。」

    ソロスは、たった一晩の間に、ポンド投機で9.58億ドル、
    他の投資を含めると20億ドル稼いだといわれています。
    彼は、イングランド銀行に完勝した男として、一躍有名になります。

    一方の英国政府は、為替介入で20〜30億ポンドの損害を出したといわれています。

    イギリス人は、この日の屈辱感を忘れられず、ブラック・ウェンズデーと名づけました。
    しかし、ソロスは、勝利の記念日をホワイト・ウェンズデーと呼んでいます。

    ◆◆英国は、この日、三度目の公定歩合を変更して、◆◆
    ◆◆低金利政策に転換します。 ◆◆

    ◆◆このために、英国の不況で苦しんでいた産業は、◆◆
    ◆◆救われたとも言われています。◆◆

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    (2001/9/23)
    南北戦争とハッチンソンの賭け
    (前編)

    シカゴ商品取引所(CBOT)が開設されたのは、1848年のことです。
    シカゴは、五大湖に面しており、アメリカ中西部の小麦などの農産物を集積して、東部の消費地帯に海上輸送するのに好都合な都市なのです。この地で、穀物の取引が発展したのは、当然でした。

    19世紀、最も有名な相場師は、ベンジャミン・ハッチンソンです。
    彼は、ハッチ爺という尊称で、多くの買占めを成功させ、30年間、シカゴで君臨するようになります。

    その戦争が始まる以前、彼は、シカゴの小麦相場で取引を行っていましたが、なかなかチャンスを掴めませんでした。
    先物取引も、始まったばかりで、未発達でした。

    それでは、彼が最初に財産を築いた勝負を、振返ってみたいと思います。

    ・・・・・・・・・・・

    1860年11月6日、共和党のリンカーンが大統領に選出されます。
    南部の7州は連邦から脱退し、ジェファーソン・デイヴィスを臨時大統領に選び「アメリカ連合国」の独立を宣言します。

    そして、1861年4月12日南軍がサムター要塞を砲撃し、
    翌日には陥落させ、南北戦争の火蓋は切られます。

    ロバート・リー将軍が率いる南軍は強く、各地で北軍を打ち破ります。

    ・・・・・・・・・・・

    軍馬の餌は、オーツ麦です。戦争がおこるとオーツ麦の価格は暴騰します。
    北軍の補給責任者にとって、これは悩みの種です。
    予算を確保しても単価の高騰で、足りなくなってしまいます。

    この問題を解決したのが、北軍の支配下にあったシカゴの先物相場です。

    まだ収穫前の小麦やオーツ麦を前もってシカゴ商品取引所で、安く確保することで、北軍の補給は楽になったのです。
    一方の南軍は、こうした買い方が出来ません。戦争末期には、次第に食料不足に陥ります。

    さて、小麦の現物値段は、最初は16セントでしたが、どんどん値上がりします。1862年には、43セント、そして1863年の6月には、67セントまで達します。

    1863年1月1日、リンカーンの奴隷解放宣言が発効し、北軍は海外諸国の支持を得るのに成功します。

    ハッチンソンは、熟慮します。
    今は南軍が有利だが、工業力に勝る北軍がやがて盛り返すのではなかろうか?

    ハッチンソンは、レバレッジ(てこの原理)が効く先物市場で大きな勝負に出ます。
    彼は、1863年秋の小麦の先物を売りまくったのです。

    北軍が負ければ、シカゴに小麦は集まらずに破産するしかありません。
    南軍が負ければ、異常高値の小麦は暴落して大儲けです。

    ・・・・・・・・・・・

    ◆◆そして、1863年7月、ゲティスバーグで、◆◆
    ◆◆雌雄を決すべく合計10万人の南軍と北軍が激突します。◆◆
    ◆◆ この続きは、明日発表します。◆◆

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    (2001/9/24)
    南北戦争とハッチンソンの賭け
    (後編)

    1863年7月1日早朝、偶発的な小競り合いから、ゲティスバーグの戦いは始まります。 ゲティスバーグは、多くの道路が交わる地点で、両軍の増援部隊が続々と到着します。

    翌日には、合計10万の兵力が対峙します。
    この戦いで、南北戦争の帰趨は決まるのです。

    北軍の総司令官は、ミード将軍で、二つの丘を結んだ4kmの線に布陣します。 高台を利用した、守り易い陣形です。

    南軍の総司令官はリー将軍で、軍を二つに分け、北軍を南北から挟み撃ちにする形に布陣します。

    リー将軍は、北軍の南端近くの丘の守りが手薄なことに気が付きます。
    この丘(リトル・ラウンド・トップ)を占領すれば、北軍全体に砲撃することが可能なのです。
    丘の争奪戦が、4時間にわたり繰り広げられますが、北軍は辛くも守り抜きます。

    3日早朝、挟み撃ちしていた南軍の別働隊が、北軍の奇襲を受けて敗走します。
    焦ったリー将軍は、決定的なミスを犯します。

    無謀にも、15,000人の南軍精鋭が隊列を組み、中央突破を決意します。
    彼らが、突入したのは、見晴らしのよい田園地帯でした。
    高台から、北軍のライフル銃が火を噴きます。

    北軍の防衛線を突破した突撃隊は、わずか150人。南軍の完膚なきまでの敗北でした。

    7月4日は、アメリカ独立記念日です。
    この日の夕刻、リー将軍は、7000人の死傷者を置き去りに、無念の撤退を開始します。
    撤退は、巧妙に行われ、北軍は翌日までこの事実を知りませんした。

    この戦闘を境に、南軍は次第に追い詰められるようになります。 この戦いは、太平洋戦争の転換点となったミッドウェー海戦に似ていると思います。

    ・・・・・・・・・・・

    ゲティスバーグで、北軍大勝利の報が伝わると、シカゴ商品取引所の小麦価格は、大暴落します。
    北軍の支配地域が安定して、小麦が大量に入荷するようになるのは確実です。

    先物を売っていたハッチンソンは、この勝負で大金持ちになります。
    さて、この後、彼は儲けた資金を活用し、先物を駆使して、力ずくで相場を支配するようになります。

    何年か後、小麦が不作になります。彼は、史上初の小麦の買占めを敢行します。

    すべての小麦を買い占めれば、言い値で売ることが可能でした。
    ハッチンソンには、その資金力があったのです。

    高いパンを買わされる消費者も、怒り心頭に達します。特に、売り方は、買占めによる異常高値で買戻しも出来ず、破滅します。
    ハッチンソンへの憎しみは、募っていきます。

    ◆◆ハッチンソンは、こう弁解しています。◆◆
    ◆◆「私が悪いわけではない。問題が起こるのは、制度が悪いのだ」 ◆◆

    ◆◆ところで、アフガニスタンとの戦争は、◆◆
    ◆◆何を取引すればビックチャンスなのでしょうかね?◆◆

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    (2001/9/30)
    スエズ動乱と二人の相場師
    (前編)

    1956年7月26日、エジプトのナセル大統領は、
    スエズ運河を国営化して、エジプト人の尊厳と誇りを取り戻そう」
    と大群衆を前に演説します。

    エジプト人の聴衆は、この宣言を聞き、感激の涙を流して熱狂します。

    スエズ運河の通行料でアスワンハイダムの建設資金を賄うことが目的でした。
    米英は、ナセルの中立外交政策への反発から、ダムへの資金を凍結していたのです。

    驚いたのは、スエズ運河の大株主、イギリスとフランスです。
    両国のインド洋への生命線・スエズ運河を断たれては大変です。

    イギリスとフランスは、イスラエルを誘い、ナセル政権打倒を目指して、戦争を決意します。

    こうして、1956年10月29日、イスラエルがエジプトに進入して、スエズ動乱(第二次中東戦争)が勃発します。

    31日、英仏軍がカイロを爆撃し、11月6日にはスエズの入り口、ポートサイドを占領します。

    11月1日、ナセルは、スエズ運河が占領される前に、これを爆破して、運行を停止させます。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・

    山瀬正則は、明治42年三重県松坂市で生まれました。
    彼は、子供の頃から「相場師になりたい」と考えていました。

    この夢を果たすべく、山一證券に入社し、頭角を現します。
    スエズ動乱が起きた時には、彼は山一證券株式部長の要職にありました。

    スエズ運河が封鎖されると、船舶は喜望峰まで遠回りするしかありません。
    運賃は、2倍に高騰します。

    山瀬は、船株買いを推奨します。
    山瀬は、これまで多くの相場を当てており、多くの山瀬ファンがついています。

    大同海運などは、動乱前の59円から12月には95円に暴騰します。

    「戦争が起これば船株買い」は、昔から常識です。
    山瀬は、さらに猛然と買い進みます。

    さて、この相場をじっと観察していた、もう一人の相場師がいました。

    以前ご紹介した、独眼流・石井久です。

    彼も、最初は買いから入りました。
    しかし、彼は、財界人からある話を聞きます。

    この時点から、石井は、売りに転換します。
    彼にも、多くの信奉者が存在します。

    ◆◆さて、二人の相場師。どちらの判断が正しいか?◆◆
    ◆◆ 石井の聞いたある話とは何か?◆◆

    ◆◆ この続きは、明日発表します。◆◆

    (参考文献)私の履歴書「石井久」  日本経済新聞

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    (2001/10/1)
    スエズ動乱と二人の相場師
    (後編)

    エジプトに戦争を仕掛けたイギリスとフランスは、国際世論の批判を浴びます。
    アメリカも、ソ連が参戦することを恐れて、両国に撤兵するよう圧力をかけます。
    そして、イギリスとフランスは、12月下旬しぶしぶエジプトを撤退します。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・

    1956年12月20日、ケインズ理論を引っさげて、石橋湛山内閣が誕生します。
    株式市場は、積極財政政策を期待して暴騰します。

    人気の船株は、1956年の東証年間出来高の17%を占めました。
    まさに、山瀬正則の得意の絶頂です。スエズの戦火が収まっても、国際商品や海上運賃はスエズ封鎖の影響で上がる一方です。

    1957年2月に入っても山瀬は、船株の買い推奨を続けます。 ソ連がエジプトを支援し、アメリカがイスラエルを梃入れすることで、長期戦になる可能性もあったのです。

    しかし、石井久は、この相場に疑問をもち始めます。

    「スエズ運河の復旧は、砂漠を掘ればよいので、短期間で可能なのではないだろうか?」

    石井は、飯野海運の社長から「新船建造の船台を大量に押さえた」と言う話を聞きます。
    造船所の船台が、遠い先まで埋まっているようです。

    増資を行い資金を確保して、船舶を建造するようです。
    海運会社のこの判断は、間違っている。

    次の一連の考えが、石井に閃きます。
    スエズ運河が再開---新造船の増加---運賃の暴落---増資による株の供給過剰---船株の大暴落

    石井は、この日を境に船株を徹底的に空売りします。

    2月、スエズの再開が近いのを見越して、海上運賃が値下がりをはじめます。 同時に船株が、暴落します。1月24日には106円だった飯野海運も、3月8日には80円まで下がります。

    3月イスラエルが、国連決議に従い、ついに撤退します。そして、1957年4月、スエズ運河は再開します。

    石井の空売りは、大成功を収めます。
    石井信者の信頼は高まり、立花証券買収への道を歩むことになります。

    一方、山瀬正則は、無残に敗れます。
    1957年1月、株式部長の職を解かれ、閑職の投信部長に飛ばされます。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・

    この事件で、英仏は、スエズ運河を失ったばかりか、国際的な信頼を失墜させます。

    一方、スエズ運河を手中に収めたナセル大統領は、ソ連からアスワンハイダムの資金提供を得ることにも成功します。 1958年には、アラブの名声を高めたエジプトは、シリアとともにアラブ連合共和国を建国します。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・

    海運会社は、この後、船腹過剰による不況に苦しみます。
    1958年、海運会社の株価は、のきなみ20〜30円となります。
    1964年、海運会社は、運輸省の主導による海運集約化に追い込まれていきます。

    ◆◆さて、山一の顧客は、この失敗にもかかわらず、◆◆
    ◆◆エネルギッシュな山瀬の姿を、忘れられなかったようです。◆◆

    ◆◆ 1960年8月1日、山瀬は「日本一の相場メーカー」◆◆
    ◆◆山一證券株式部長としてカムバックを果たします。◆◆

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    (2001/10/2)
    明暦の大火と河村瑞賢(前編)

    その年の江戸は、雨が降らず空気が乾燥しきっていました。
    その日は、北西風が吹き荒れていました。

    明暦3年(1657年)正月18日、本郷の本妙寺では、恋煩いで亡くなった娘のための法要が営まれていました。

    娘は、両親に深く愛されていました。
    お気に入りの振袖をあの娘のもとに送ろう。

    両親は、あでやかな振袖に火をつけます。ぱちぱち、音を立てながら、振袖は紅蓮(ぐれん)の炎に包まれます。

    よく晴れた昼下がりの供養・・・

    すると一陣の突風が吹き、振袖は、天高く舞い上がります。
    そして、本妙寺本堂の屋根に落下。
    しばらくすると、寺が燃え出します。

    「火事だ!半鐘を鳴らせ!火消しを呼べ!」

    しかし、もはや火の勢いを止めることは、誰にも出来ません。
    それどころか、炎は、風にのり隣の建物に移ります

    江戸の町は、火事に無防備すぎました。
    延焼を防ぐ広小路は、この火事を教訓に造られたのです。

    火の手は、湯島から、神田を経て燃え広がります。
    翌19日には、濠を超えて、江戸城本丸、二の丸、三の丸を焼き尽くします。

    江戸防衛の観点から、当時の隅田川には、千住大橋しかありませんでした。
    川向こうに逃げることができず、多くの人が命を落とします。

    江戸の町は、6割が焼失し、10万人が亡くなりました。
    明暦大火(振袖火事)は、関東大震災(死者10万人)に匹敵する空前の大災害なのです。

    ・・・・・・・・・・・・

    さて、江戸の町全体が燃えるのを見ながら、思案にふけっている一人の男がいました。

    彼の自宅や店も火事で燃えるかもしれません。
    しかし、そんな小さなことは、どうでもよいのです。

    彼の名は、河村瑞賢。40歳の働き盛り。
    土木請負業をやりながら、材木商に乗り出したばかりの野心家です。

    ◆◆「これだ!」彼は意を決すると、ありったけの金銀を集めます。◆◆
    ◆◆ そして、金銀を携えて、早篭に乗り西へ向かいます。◆◆

    ◆◆ この続きは、明日発表します。◆◆

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    (2001/10/3)
    明暦の大火と河村瑞賢(後編)

    河村瑞賢は、伊勢の国、現在の三重県南島町で生まれました。 江戸に出て、車力をしながら生計を立てます。しかし、いくら働いても生活は楽になりません。

    あるとき、品川で、お盆の精霊送りの瓜やナスが大量に浜辺に打ち上げられているのを見つけます。
    瑞賢は、こじきを雇い、瓜やナスを拾い集めて、洗浄後、漬物にします。
    そして、工事現場で売りさばき、最初の資金を得たといわれています。

    同時に、現場監督と親密になり、土木請負業への道を開いたそうです。

    さて、振袖火事の直後に話を戻します。

    河村瑞賢は、昼夜休むことなく、一路木曽を目指します。
    誰よりも速く・・・
    もちろん、材木を買い占めることが目的です。

    木曽は、尾張の徳川家の支配地です。
    当時、尾張藩は、木材の管理を山村甚兵衛という男に任せていました。

    河村瑞賢は、山村の邸宅に駆け込みます。初対面の相手をどう説得するか?

    庭で子供が遊んでいます。
    話してみると、山村の子供のようです。
    小判に穴をあけて、紙縒りを通し子供に与えます。

    山村は、それを見て富豪の材木商が来たと勘違いします。
    半日、世間話をして、すっかり意気が統合します。

    その後、商談成立。契約書をかわし、木曽の材木は、すべて瑞賢によって買い占められます。 瑞賢が携えた全財産が内金となり、残金は三月以内に木材の受け渡しのときに支払えばよいのです。

    山村は、「馬鹿高値で売れたわい」と喜びます。
    しかし、あくる日、何人もの材木商が山村の所に押し寄せます。

    「江戸で大火があり、江戸城や大名屋敷の再建のための檜が必要なんです。」
    「江戸に在庫した材木は、すべて灰になってしまいました。」

    「工事受注にために、いくら高くてもいいから材木を売ってください」
    彼らは、口をそろえて懇願します。

    「してやられた!」
    山村は、悔しがりますが、後の祭りです。

    「しかし、よい人物と知り合いになれた」と山村は考え直します。
    山村は、8年後に藩の改革で実権を失うまで、瑞賢のよいパートナーとなります。

    河村瑞賢は、この勝負で大富豪への階段を駆け上ります。

    この時の瑞賢の儲けぶりを株で例えるなら・・・
    全財産で10円のコールオプションを大量に買ったら、日経平均が2000円上がったようなものですね。

    彼は、大火を利用して、金を儲けただけでなく、この後、歴史に残る事業を行っています。

    西回り、東回り航路を開発し奥羽地方から米を輸送し、淀川の治水工事を完成し、越後上田銀山の経営を成功させています。

    ◆◆河村瑞賢は、紀伊国屋文左衛門とは異なり、◆◆
    ◆◆偉人伝に出てくる人なのです。◆◆

    (参考文献)河村瑞賢 古田良一著 吉川弘文館

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