■J_Coffeeの徒然草(18巻)■
ねずみ小僧の義賊伝説 (前編) |
幕末の貧乏長屋での出来事です。
娘は、年老いた病気の父親の看病に疲れ果てていました。
既に蓄えは底をつき、明日の食べ物さえありません。
「とうちゃんを殺して、身投げするしかない・・・」、娘はこうつぶやきました。
そのとき、娘の後ろに忍び寄る怪しい影が・・・・チャリン、チャリン
娘の後ろで澄んだ音がします。
義賊・ねずみ小僧次郎吉が大名屋敷から盗んだ小判3枚を、父娘のために投げ込んだのでした。
「悪徳大名が搾り取った小判を、元の持ち主に返したまでよ」
「せめて、お名前を・・・ご恩は、一生忘れません。」娘は、あたかも仏様を拝むように、走り去る男に手を合わせます。
・・・・・・・・
以上は私の創作ですが、江戸時代の小説や講談、芝居には、こんなトーンで義賊が描かれれているのでしょう。 彼は実在の人物ですが、義賊というのは読者受けを狙った作り話のようです。
ねずみ小僧の本名は、中村次郎吉。仕事は、ねずみのような小柄な身体を生かした鳶職でした。身軽で、屋敷の塀を飛び越えたり、屋根から屋根へと逃亡するのは慣れていました。
彼の自供によれば、10年間に大名屋敷ばかり99ヶ所に忍び込み、合計3000両以上の金を盗みます。
武州川越藩などは、3回も被害に遭いますが、面子から「一度も入られていない」と言い張ったようです。自供していない余罪も多いはずです。
彼は博打と女が好きで、盗んだ金で散財したようです。貧乏長屋に小判をばら撒いたとの史実はありません。 大名屋敷ばかりを狙ったのも、お金が必ず置いてあり、武士の警備を過信して、戸締りなどが杜撰だという合理的な理由からでしょう。
◆◆1832年4月(天保3年)ねずみ小僧は、ついに捕らえられます。◆◆
◆◆この続きは、明日発表します。◆◆
ねずみ小僧の義賊伝説 (後編) |
8月18日の暑い昼下がり。
ねずみ小僧は、馬に乗せられ、小伝馬町の牢を出発、市中引き回しの上、鈴ヶ森の刑場に向かいます。 沿道は、名高い怪盗・ねずみ小僧を一目みようと、群集で埋め尽くされます。
彼は、死を恐れることなく、堂々と振舞います。
江戸庶民から金を盗んだことがないせいか、不思議な人気がありました。
彼は磔にされ、薄化粧された首は、獄門に晒されます。
彼の人気にあやかり、「鼠小僧実記」という本が書かれます。「貧しい人に金を分け与えた」との話は、このときでっち上げられます。 幕末で世情が不安な時代です。
この話は、人気を呼び、講談や芝居に取り上げられます。義賊などの悪人が主人公となる白波物は、このころ誕生します。
彼の墓は、両国の回向院にあります。
天保三年八月十八日、俗名中村次郎吉之墓
その墓石には、はっきりと刻まれていました・・・しかし・・
その有名な話が誕生したのは、いったい何時の頃なのか?
「ネズミ小僧の墓石のかけらを身に付けると賭けに勝つそうな」 こんな噂が流布されます。 |
天保4年頃(1833年)から旧両国国技館の竣工(1909年)まで、回向院は、勧進相撲の定場所となりました。 開催期間には、賭博が認められました。
相撲賭博の関係者に、この噂は広まります。
そして今日でも、ギャンブラーが万馬券を買うときや、相場師が大勝負にでるとき、彼の墓石は削り取られる運命にあるのです。
墓石も小さくなり、何回か取り替えました。
◆◆回向院は、たまりかねて、新しい墓石を金網で覆いますが、◆◆
◆◆被害を食い止めることはできません。◆◆
◆◆
怪盗のように素早く、株式市場から金を抜こうと思い、◆◆
◆◆両国の回向院へは、けっして行かないで下さいね。◆◆
(参考文献)「物語 江戸の事件史」 加太こうじ 立風書房
勝負に負けたときの前頭葉 |
株で破産する人には、共通のパターンがあるようです。
- 裏帳簿の損害を消すために、阪神大震災直後の日本株のオプション取引に全てを賭けて、ベアリング銀行を倒産に追い込んだニック・リーソン
- 通貨危機のタイへの投資の失敗を取り戻そうとして、1997年10月27日のNY株の暴落に買い向かい、惜しくも力尽きたビクター・ニーダーホッファー
- 米相場での巨額損失を取り戻そうと、鐘紡仕手戦にのめり込み、借金王となった 石井定七
天才トレーダーが心理的に嵌った罠は、要約すると次のとおりです。
先ず、ある勝負で大きく負ける。
口惜しくなり興奮して、その損をどうしても次の勝負で取り戻したい、との気持ちが強くなります。
そして普段なら絶対に大金を賭けるはずのない取引に、乾坤一滴の大勝負を挑んでしまいます。
そして、この大勝負にも敗北して、破産します。
最初に負けたときに、冷却期間を置けば、次の致命的なミスは防げたかもしれません。
最近の米ミシガン大心理学部の研究グループが、
12人にギャンブルをさせて脳の働きを調べる実験をしたそうです。
株式取引などで瞬時に直観的な判断を行う場合には、脳の「前頭葉内側野」が関係しているそうです。
彼らは、リスクの大きい取引と小さい取引のどちらかを選ぶことができます。
実験結果は、次のとおりです。
前頭葉内側野の活動は、儲けた時より損した時の方が活発になります。
もうけた直後には、リスクの小さい取引を選択して、利益を守る傾向が見られたそうです。 損をした直後には、リスクの大きい取引を選択して、損を取り戻そうとするそうです。 |
◆◆この論文は、2002年3月22日付の米科学誌サイエンスに発表されたそうです。 ◆◆
◆◆
損した時は、深呼吸でもして、冷静になったほうがよいようです。◆◆
松屋フーズの優待券 |
松屋フーズは、吉野家とともに安い牛丼を売っているチェーン店です。
3月末と9月末の100株以上の株主に対して、松屋フーズは、それぞれ10枚ずつの優待食事券を6月下旬と12月下旬に配ります。 この優待券は、メニューの選びかたによっては、1枚で600円以上の食事ができます。
yahooオークションでは、1枚530円程度で売れるようです。この株の配当は、期末(3月)と中間(9月)に12円ずつでる予定です。 さて、下の表は、3月末の株価の動きです。
日付 | 始値 | 高値 | 安値 | 終値 | 出来高 | 逆日歩 |
---|---|---|---|---|---|---|
2002年3月29日 | 2,035 | 2,040 | 2,010 | 2,010 | 11,400 | 0 |
2002年3月28日 | 2,075 | 2,075 | 1,995 | 1,995 | 26,500 | 0 |
2002年3月27日 | 2,070 | 2,075 | 2,040 | 2,070 | 11,900 | 0 |
2002年3月26日(権利落ち日) | 2,100 | 2,110 | 2,060 | 2,075 | 23,900 | - |
2002年3月25日(権利付き最終日) | 2,155 | 2,165 | 2,130 | 2,155 | 58,500 | 2.2円(4日) |
2002年3月22日 | 2,100 | 2,155 | 2,090 | 2,145 | 31,600 | 0 |
2002年3月20日 | 2,090 | 2,095 | 2,075 | 2,085 | 14,600 | 0 |
2002年3月19日 | 2,045 | 2,050 | 2,020 | 2,050 | 14,300 | 0 |
優待券と配当の権利付き最終日は、3月25日でした。
この日の出来高が58,500株と多いのは、優待券欲しさの買いが集中するためでしょう。
そして、次の日の寄り付きは、前日の終値に比べて55円も値下がりします。
配当の12円より値下がりが大きいのは、明らかに優待券の影響です。
さて、期末の権利付き最終日には、通常2日分の逆日歩がつきますが、今年は土日分も重なり、4日分となりました。 この日の松屋フーズは、2.2円(4日分)の逆日歩がつきました。逆日歩がついたのは、この日だけです。
権利付き最終日だけ、何故空売りが多かったのでしょうか?
信用取引制度において、配当については、売り方は買い方にその分を払わなくてはなりません。 しかし、優待券については、盲点になっており、 売り方は支払う必要がないのです。 |
従って、最終日に空売りして、権利落ち後買戻せば優待券分の利益がでる可能性が高いのです。
この間隙をついて、鞘取りをする人が存在するようです。
最後に、もっと、せこい古典的方法をご紹介します。
25日の寄り付き、100株の現物を成り行きで買い、同時に100株を成り行きで信用売りします。
そして、優待券の権利をとり、権利落ち後現渡し。
信用売りと現物買いの手数料が安い証券会社を、選ばなければなりません。
収入は優待券で、費用は手数料と逆日歩。
牛丼好きなら、使用してもよし。
オークションで、5300円で売り、手間を惜しまず、細かく稼いでいる人もいるようです。
◆◆牛丼嫌いの私は、実体験はありませんね。 ◆◆
◆◆
ところで、この取引に向いた証券会社って、何処なのでしょうか? ◆◆
◆◆
ご存知の方がいらっしゃれば、教えてください。◆◆
禁酒法時代(前編) |
酒の製造や販売を禁止したら、どうなるか?
20世紀の初頭、アメリカは、世界史に残る壮大な実験を行いました。 この禁酒法の成立にもっとも影響を与えたのは、第一次世界大戦でしょう。
戦争は、愛国心を鼓舞して、禁欲的な生活を人々に押し付けます。反独感情の高まりは、禁酒を促進させました。 醸造業者には、敵国ドイツ人が圧倒的に多かったのです。
まず、いくつかの州で禁酒法が成立します。
しかし、アメリカ全土に禁酒をもたらすには、憲法改正が必要でした。
1919年10月28日のことです。
第一節 本修正条項が批准されて1年を経過した時点で、アメリカ合衆国及びその管理下に
第二節 (以下略)
「呑んだくれのいない秩序ある社会を実現しよう」、理想に燃えた連邦議会の上下両院2/3以上の議員がこの修正案に賛成します。
1919年11月11日、第一次世界大戦は、終了します。
ウィルソン大統領は拒否権を使い、2.75%以下の酒類を認めようと努力しますが、議会の反対に敗れます。 もう誰にも、禁酒法時代の到来を止めることはできません。
・・・さて、1920年1月16日のある酒場・・・・
その日は、常連で大混雑していました。
店は、最後の営業日を迎えていました。
今日の24時になると、酒場は営業を止めなければなりません。
店主は、残った全ての酒を定価で常連に販売します。
明日からは、酒の販売は犯罪になるのです。
客は、店主に心から感謝します。
何故なら、酒は、価格が何倍にも跳ね上がり、その後、町から消えてしまったのです。 |
◆◆アルコール依存症の父親のいる家庭では、◆◆
◆◆酒への支出が減り、家族に団らんがもどります。◆◆
◆◆理想社会が実現したかに見えました。◆◆
◆◆しかし、・・・この続きは、明日発表します。◆◆
禁酒法時代(中編) |
禁酒法時代に最も恩恵を受けた国は、カナダといわれています。 カナダは、アメリカへの酒の輸出を取り締まりませんでした。カナダの酒造メーカーは、莫大な需要をつかみます。
通常、酒を輸出する場合、カナダの税金は業者に還付されます。しかし、アメリカ人が消費する密輸品には、カナダの税金がかかったままでした。政府も税収を上げることが出来たのです。
アメリカ人は、カナダの酒が欲しい一心で国境を越えます。カナダ国内では、1ケース(24本入り)5ドルのビールが、アメリカの国境沿いの町では、10ドルで売られ、ニューヨークに運ぶと25ドルになりました。
「酒を呑みたい」という人間の欲望を抑えることは、不可能でした。 アメリカ人は、罪の意識なしに酒を呑み続けたのです。
酒の密造や密輸、もぐりの酒場。 これらを組織化して、途方もない利益を上げたのはマフィアでした。 |
アメリカ政府は高価な密造酒から、1セントの税金もとれません。
マフィアは、警官や政治家を買収して巨大化します。
その男は、イタリアのナポリからの貧しい移民の子供でした。
彼は、古いビール工場を手に入れ、ビールの密売を始めます。
彼の名は、アル・カポネ。
・・・2月14日、聖バレンタインが殉教した日・・・
「密造酒を安く売りたい」という情報に導かれ、アル・カポネのライバル、オパニオン一家は、倉庫に向かいます。
そこには、一人の警官が立ってました。
警官は、隠していたマシンガンを取り出し、オパニオン一家の幹部6人を惨殺します。
(聖バレンタインの大虐殺)
もちろん、密造酒の取り締まりを装った偽警官です。
このように敵対勢力を次々と暗殺して、カポネはシカゴの暗黒街の支配者となります。
1929年司法省長官は、エリオット・ネスをリーダーに、精鋭9人のアンタッチャブルを組織します。
アンタッチャブルとは、「マフィアが買収できない組織」という意味です。
ネスの活躍で、1931年アル・カポネは脱税容疑で告発され、11年の禁固刑を受けます。
◆◆禁酒法時代が、何故、終わりを告げたのか?◆◆
◆◆
その原因は、皆さんがお馴染みのある出来事が発端でした。◆◆
◆◆
1929年10月24日・・・明日に続きます◆◆
禁酒法時代(後編) |
- 労働者が酒を飲まないことで、生産性が上がる。
- 家庭では酒への出費が抑えられ、月給が有意義に使われる。
- 1920年代のめざましい経済発展は、禁酒法のおかげである。
多くの人がそう信じていました。
共和党のフーバー大統領は、禁酒法の支持者でした。
憲法を改正して36州の承認を得ない限り、禁酒法は続きます。
永遠に廃止は不可能のように思えました。
・・・・ところが、1929年10月24日・・・・
NY株の大暴落を契機に世界大恐慌がアメリカを襲います。
やがて、失業者が街に溢れ、国家財政が逼迫すると、禁酒法反対派は、次の主張をして反撃に出ます。
- 酒の製造や販売で関連業界を含めると25万人の雇用が確保される。
- 禁酒法を撤廃すれば、酒税収入が8億5000万ドルも確保できる。
- 禁酒法を守るために、4150万ドルの予算が禁酒法局や沿岸警備隊などで使われている。
経済効果は期待できる、というわけです。
反対派は、次第にアメリカ人の支持を得るようになります。
大恐慌を招いたフーバーの人気は凋落し、新しい政治家の誕生を誰もが願うようになります。
1932年6月29日、民主党の大統領候補が決まる党大会でのことです。 当初、ルーズベルトは、禁酒法に対する態度が曖昧でした。
しかし、彼は、禁酒法の廃止に対する党員の熱狂的な支持を、政治家の嗅覚で感じ取ります。
候補者受諾演説で、禁酒法反対への強い決意を謳い上げます。予定にない行動でした。
選挙運動期間中、ルーズベルトは、禁酒法が犯罪を助長して国家財政を赤字にすること、その廃止は不況対策となることを主張し続けます。 |
ルーズベルトは、圧倒的な大差で大統領に当選します。
1933年2月28日、憲法修正案は、議会を通過します。
4月7日、多くの州で酒が解禁されます。
同日零時4分、ビール2ケースを積んだトラックがホワイトハウスに到着します。
◆◆トラックの荷台には、次のように書かれていました。◆◆
◆◆
ルーズベルト大統領閣下、この最初の極上ビールはあなたのです。◆◆
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