■歴史の玉手箱4■
縄文の交易船(1) |
・・・・今からおよそ4500年前の佐渡島・・・・・
空には、無数の朱鷺が舞い、海には1メートルもの真鯛が悠然と泳いでいました。
鉄も、布も、稲作もない、戦争や貨幣もない縄文時代のお話です。
アキは、丸木舟を操るのが得意な佐渡島の縄文人です。
丸木舟は、石斧でくりぬいて建造します。 そして、仲間と一緒に外洋にでて、鹿の骨で作った釣り針で、真鯛を捕まえるのが彼の仕事でした。
佐渡島には、天然ガラス(黒曜石)が豊富に産出しました。
黒曜石は、貝殻状に割れて、鋭い刃物ができます。鏃(やじり)や斧に使えば、最強の武器になりました。
青銅器や鉄器のない縄文時代、黒曜石は最高の素材でした。狩猟の効率を上げるばかりでなく、家族や村を外敵から守るためには、黒曜石の確保は重要でした。
祖父が死ぬ直前の言葉を、彼は忘れることができません。
祖父は、魚を採っているときに何日も漂流して、偶然、豊かな村に漂着しました。 その村への行き方を、アキに伝えたかったようです。
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島の黒曜石を積んで、大海の流れ(対馬海流)にのり、太陽の反対に進路をとる。
若葉が芽吹く頃の新月の朝、出航しなければならない。
大海の流れに乗るためには、決して陸に近づいてはならない。
二回目の満月の頃、陸に近づくと巨木で建造された六本柱の塔が見える。 そこは、陸の北の果て、世界一豊かな「栗の王国」の港だ。 |
そこの村の長に黒曜石を渡せば、見たことのない宝物を代わりにもらえる。
それを持ち帰れば、村が豊かになるのに・・・
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アキは、この冒険を実行する決心をします。
人望のあるアキは、7人の弟や友達を仲間に引き込むことに成功します。
◆◆荒れた日本海も、初夏になると穏やかになります。◆◆
◆◆
新月の翌朝、4艘の丸木舟に、黒曜石と水と食料を乗せて、◆◆
◆◆8人は北に進路をとったのです。◆◆
(参考文献)「縄文時代の商人たち」 小山修三、岡田康博著
縄文の交易船(2) |
・・・・・目標の津軽富士(岩木山)が見えるようになる頃・・・・・
アキたちは、疲労感を覚え、関節痛に悩まされるようになります。
航海が長引くにつれて、体中からの出血が止まらなくなります。
ビタミンC不足による壊血病の影響でした。
対馬海流は津軽海峡をぬけて、太平洋に流れ込んでいます。
交易船は、本州の北の果て、津軽海峡に入ると、方向を転換して陸奥湾を南下します。
祖父の話では、この湾の奥に栗の王国が、あるはずです。
二回目の満月の夜。
目的地は、近いはずです。
こんなに暗くては、六本柱の塔が見つけるのは、不可能に思えました。
そのとき、アキは、遥か彼方の「かがり火」を発見します。
それは、交易船を招く灯台の光のように見えたかもしれません。
そのかがり火は、六本柱の塔の上で焚かれていたのです。
アキたちは上陸します。
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今日、青森県の三内丸山遺跡として知られている、その村は、ブナ林を切り開き、栗の木を栽培していました。
この地層に含まれる花粉を調査すると、当時、どんな木が分布していたかを知ることが出来ます。
この地層に大量に含まれる栗の花粉の遺伝子は、全て共通で、縄文人が栗の木を植林した証拠になっています。
調査によれば、それどころか、三内丸山の縄文人は、漆やニワトコの木も植林していました。
漆器の技術を持ち、ニワトコからは酒を造っていたのです。
人口300〜500人、栗の王国は1500年間栄え、日本最大の文明を誇る集落だったのです。
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集落から数十人の男が出てきて、アキたちを取り囲みます。
◆◆栗の王国の言葉は、アキの言葉と異なっていました。◆◆
◆◆
どうしたらよいのか?◆◆
◆◆
村長が、アキに歩みよります。◆◆
縄文の交易船(3) |
アキは、黒曜石を村長(むらおさ)に差し出します。
村長は、にっこり微笑んで
「遠い所をよくおいでになった。ここでは黒曜石は貴重なので、助かります。」
村長は、多くの言葉に通じていました。
これまでのいきさつをアキが話すと、村長はアキの勇気に感心します。
村長は、黒曜石の代金として、大量のアザラシの皮や漆器や琥珀を支払います。
栗の王国の住民は、アキたちを歓待します。
栗、ヒエ、鮭、コンブ、この地の食べ物は豊かでした。
新鮮な木の実は、壊血病の治療に役立ちました。
美しい娘が、漆塗りの杯をアキのところに差し出します。
祭りの時にしか飲めないニワトコ酒が、注がれていました。
その晩、アキとその娘は結ばれます。
それは、近親結婚を避け、新しい血を導入するための、縄文時代の知恵だったかもしれません。
いや、村長には、もっと遠大な計画があったようです。
アキたちは、港に案内されます。
そこには、栗の王国の船団が待機していました。
二艘の丸木船を連結させて、その上に板の甲板を持つ交易船です。
船には、皮製の帆と舵が装備されていました。
「我々の船団に加わってもらえないでしょうか?」
村長は、こう切り出します。
「南の地まで行って、翠の石(ヒスイ)を手に入れたいのですが、勇気ある若者が不足しているのです。」
アキたちは、この申し出を引き受けます。
縄文時代、翠色に輝くヒスイは、珍重されていました。 それは、貨幣のかわりだったのかもしれません。 |
翌年の初夏、船団は、ヒスイを求めて、長旅に出ます。
帰りは、対馬海流に逆らうため、陸に沿って航行しなければなりません。 集落に寄港して、漆器を食料と水に交換します。
・・・・秋が深まり航海が危険となったころ・・・・
その場所は、今日ではフォッサマグナ(大地溝帯)の日本海側の終点として、よく知られています。
新潟県・糸魚川のあたり・・・
アキたちは、ついにヒスイが豊富に産出する集落を発見します。
彼は、物々交換により、ヒスイの原石を大量に手に入れます。
そして、三年目の若葉の芽吹く頃、アキは大海の流れにのって、
妻の待つ陸の北の果てを目指します。
◆◆三内丸山遺跡から出土されるヒスイを蛍光X線分析すると、◆◆
◆◆全てが糸魚川産のものであることが証明できるそうです。◆◆
◆◆
・・・(完)・・・◆◆
◆◆明日は、出張で休みます。◆◆
ミダス王と大富豪クラッスス (前編) |
・・・・・・ギリシャ神話から・・・・
ミダス王は、酒神デュオニソスの養い親を10日間歓待します。
デュオニソスは、お礼に願いごとを一つかなえることを約束します。
彼は、触れる物すべてを金に換える力を授かります。
黄金さえあれば、この世の富は独占です。
しかし、食事の時間になると、食べ物もすべて金に!
このままでは、飢え死にです。
最愛の娘が、父に抱かれようと微笑みながら飛びつきます。 その瞬間、愛娘は、凍りつき、黄金の彫刻に。 |
悲嘆にくれたミダス王は、デュオニソスの許しを得て、川で沐浴すると、魔法の力は消え去ります。
その川からは、砂金が取れるようになったとか。
ミダス王は、「王様の耳はロバの耳」でも有名ですね。
・・・・・さて、時代はかわり、ローマ帝国の強欲な男の話・・・・・・・
BC60年、スペインから帰還したユリウス・カエサル は、元老院と対抗するためポンペイウスとクラッススと手を組みます。 いわゆる、三頭政治です。
カエサルと軍人ポンペイウスとの間を取り持ったのが、ローマ最大の富豪クラッススです。
クラッススが、いかにして莫大な富を築いたか?
彼の父は、ローマの有力者でしたが、マリウス独裁(BC87年)の頃、自殺に追い込まれます。
やがて、スッラという実力者が台頭し、マリウスと対立するようになります。
クラッススは、親の仇を討つため挙兵して、スッラを支持します。
そして、スラが行ったマリウス派の財産没収に乗じて大富豪となります。
彼が、富を築いたもう一つの要因は、消防団を組織したことに始まります。
この消防団は、火事になっても、前金をもらって契約した家しか消火しなかったそうです。
そして、未契約の家が火事になると土地を安値で買取、家を建てて法外な家賃を取り立てます。 権力者には、巨額の賄賂が、ばら撒かれました。
◆◆火事と戦争で、他人の資産を強奪したという話です。◆◆
◆◆
さて、この男に、どんな最期が待っているか?◆◆
◆◆後編をお楽しみに◆◆
ミダス王と大富豪クラッスス (中編) |
クラッススの富に対する貪欲さは、とどまることを知らず、金貸しをはじめます。 最大の貸出先は、借金王ユリウス・カエサル。
これは、大きな賭けでした。 不良債権の発生を未然に防ぐには、カエサルに失脚されては困ります。クラッススは、三頭政治をまとめて元老院を封じ込めるしかなかったのです。
ポンペイウスもカエサルも、多くの戦争を勝利に導いた英雄です。 一方、クラッススは、スパルタコスという奴隷の反乱を鎮めた戦歴があるだけで、見劣りします。既に60歳、時間はあまり残されていません。
彼は、毛虫が蝶に生まれ変わるように、飛躍したかったのでしょう。
ローマ最大となった財産を守り、さらに無限の富を得るためには、戦争に勝って祝福され、三人の頂点に立つことが必要でした。パルティア王国は、今のイラン、イラクのある地域を支配して、東方交易で栄えていました。 ローマの威風に従わず、国境は、しばしば侵犯されました。
クラッススは、パルティア遠征を決意します。
属州シリアの2個師団に、自らの6師団を編成して、3万8千人の兵力を動員します。 騎兵は4000人、歩兵が3万4000人でした。
クラッススは、イェルサレム、シリアの神殿の宝物を略奪するのに熱心でした。
そして、吝嗇な性格が禍して、集めた兵士の質には問題がありました。
そんなクラッススにも、自慢できることがありました。
カエサルの下で副官として働いていた、クラッススの息子プブリウスがはせ参じたのです。 クラッススの息子は、ガリア重騎兵の精鋭1000人を引き連れていました。 ガリア人は、馬を操るのが得意な民族で、武器は槍でした。
世界を制したローマ帝国の三大実力者の一人が、大軍を率いて攻めてくる。
パルティア王国は、恐怖で騒然となります。
パルティアの若き貴族スレナスは、1万人の軽騎兵を率いてローマを迎え撃つ決意を固めます。 ローマの1/4の兵力でしたが、武器はローマ軍の3倍の射程距離を持つ弓矢でした。
矢が尽きた時の補充用に、矢を満載した駱駝を連れて行きました。
・・・・BC53年6月9日、ユーフラティス川とティグリス川の間の砂漠地帯・・・・・
ローマとパルティアは、雌雄を決するために激突します。
パルティア軽騎兵は、けっして接近せず、馬上から放つ矢でローマ兵を射殺します。 見晴らしのきく砂漠での戦闘は、ローマにとって不利でした。
形勢を挽回するため、息子プブリウスは、騎兵2000人を引き連れて奮戦します。 さしものパルティア軍も、ガリア騎兵に押され後退をはじめます。
プブリウスは、追撃を開始します・・・しかし、それは罠でした。
退路を絶たれたプブリウスの騎兵2000人は、パルティア軽騎兵1万人に完全に包囲され、殲滅されます。
・・・その日の夜のことです・・・
◆◆ローマ軍の陣地に、一人のパルティア騎兵が◆◆
◆◆疾風のごとく近づき、丸い荷物を投げ込みます。◆◆
◆◆
クラッススの息子プブリウスの生首でした。◆◆
(参考文献)「ローマ人の物語W」 塩野七生著 新潮社
ミダス王と大富豪クラッスス (後編) |
クラッススは、息子を失った悲しみを胸に収め、ローマの陣営を回り、叱咤激励します。 戦争のような極限状態で、兵士を心を一つにまとめるのは、最高司令官への信頼です。
最高司令官がカエサルなら、自信たっぷりに演説して、ローマ兵は、自信を取り戻したかもしれません。 しかし、金儲けはうまくとも、日頃の行いが禍して、クラッススには人望がありませんでした。
自信を喪失したローマ軍は、敗戦を重ねます。
2万人が戦死、1万人が捕虜となります。
故郷に残した巨万の富は、何の役にも立ちません。
ローマ軍からの脱走兵が目立つようになります。
北の街シナカへの退却中、クラッススが率いる軍勢は、3000人まで減っていました。
そして、クラッススは、スルナスの軽騎兵に追いつかれ包囲されます。
パルティアの勝利は、明らかです。スルナスは、それだけでは満足せず、総司令官の生け捕りを計画します。
スルナスは、数人の捕虜を送り込みます。
「パルティアは、クラッススさえ引き渡せば、残りのローマ兵を全員助けると言っている」
捕虜の言葉に、ローマ兵は、心を動かされます。
クラッススは、兵士の期待に応え、少数の供を引き連れ、スレナスのもとに和平交渉に行かざるを得なかったのです。 クラッススが61歳で、殺されたのは、間違いありません。
「パルティア人によりローマの総大将が辱めを受けるのを恐れたローマの幕僚長が、クラッススを殺害した。」と言う説が一般的なようです。
勝利者・英雄スレナスの運命も苛酷でした。パルティア王オロデスは、スレナス人気の高まりに恐れをなします。
「このままでは、王座を奪われる」そう考えたオロデスは、スレナスを事故にみせかけ殺害します。そのときの年齢は、まだ30歳・・・
クラッススの最期の場面には、異説もあります。ローマは、都合の悪い歴史は消し去るでしょうから、こちらのほうが案外真実かもしれません。
・・・・・・その説によれば・・・・・・
クラッススは、捕らえられ、献上品としてパルティア王オロデスのもとに送られます。
彼は、女装させられ、街中を引きまわされます。
手段を選ばず、この世の富をすべて手に入れようとした男・クラッスス。パルティア王は、彼に相応しい刑罰を考案します。
◆◆死刑執行人は、仰向けに縛りつけられたクラッススの口を、無理やり開かせます。◆◆
◆◆
彼の大好物をヒシャクで坩堝からすくい、口に流し込みます。◆◆
◆◆
煮えたぎった、融けた黄金でした。◆◆
ポンペイ最後の日(前編) |
・・・・紀元一世紀、ローマ帝国が栄えていた頃・・・・
ナポリ湾に臨む、その街の人口は、二万人を超えていました。
12,000人が、ローマに忠誠を誓い、市民権を得ていました。そして、残り8,000人は、奴隷でした。
この街の支配者は、オスク語を話す先住民族カンパチア人(サムニウム人)でした。
街の周囲には、城壁が廻らされ、その外側は、オリーブ畑やブドウ農園が続いていました。
換金作物を販売して富を得た大農場主は、工場経営に乗り出します。
パン工場とガルム(調味料)工場。
多くの職人が雇われ、街は豊かになります。
街には、ギリシャの神アポロを祭った神殿や石を敷き詰めた道路、上水道が建設されていました。大理石をふんだんに使用した大浴場には、スティーム発生装置が完備され、市民の社交場でした。
街の東には、街の人口すべてを収容できる円形闘技場がありました。
WCサッカーのサポーターのように、観客は熱狂しました。
その試合は・・・・・
剣闘士とライオンの対決
剣闘士は、血を流しながら、ついに猛獣を倒します。
コロシアムに割れんばかりの歓声がこだまして、剣闘士は奴隷の身分から解放されます。
その街は、ローマの有力者の別荘があるほど風光明媚なところでした。
西には、紺碧のチレニア海、そして、東は美しい火山・・・ベスビオ山
街の名は、ポンペイ。
ベスビオ山は、約2万年前に海底火山として誕生したそうです。
過去6回、約3000年周期で、噴火しています。
17,000年前・・・15500年前・・・11400年前・・・7900年前・・・3800年前・・・
◆◆・・・そして、6度目は、西暦79年8月24日・・・◆◆
◆◆
その日は、早朝から不思議と暑かったそうです。◆◆
◆◆
この続きは、明日発表します。◆◆
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