■グッチ家の崩壊■

---目次---
  • ブランドバックとグッチの話(1)
  • 兄弟のライバル(2)
  • 父と子の死闘(3)
  • 血族争いの終点(4)
  • 最後のスキャンダル(5)

  • (2002/4/21)
    ブランドバックとグッチの話(1)

    私は、子供の頃から、ファッションに疎く、着るものには無頓着でした。 お嬢様(最近は乱造されぎみ)は、何故、判で押したように、ルイ・ヴィトン柄のバックを持っているのか、なかなか理解できませんでした。

    先日、エルメスのケリーバックが60万円もすると知って、衝撃を受けました。 ケリーバックは、モナコ王妃になったグレースケリーが愛用したバックだそうですが、そんな金があれば、あの銘柄が1000株買えるとつい考えてしまいました。

    良い素材を厳選して、イタリアの一流の皮職人が、丹精こめて製作するのでしょう。

    しかし、これはあくまで想像ですが・・・小牛の良質な皮、金具、職人への支払い・・・全部足しても、製造原価の売上に占める割合は少ないのではないでしょうか?贋物を作ろうとする気持ちも分かるような気がします。

    若い子に人気のあるプラダの黒いバックの素材は、「ポコノ」とか言ってますが、あれは、確かナイロンの一種ですよね?

    同じ値段(数万円)で買える録画可能なDVDの新製品と比べると、不公平だと感じてしまいます。DVDの中には、千点を越す電子部品が詰まっています。製造が大変な割には、付加価値が低く、値下げの連続です。

    らくちんそうなプラダのバックを、造りたい。

    しかし、これ見よがしに、ブランドが特定できるマークが入っているのも、気になります。
    「見て。私は、エルメスを持っているのよ」
    というのが、女性の虚栄心をくすぐっていますね。

    本当に品質で勝負するなら、マークは必要ないはずです。

    ・・・・さて、前置はこのぐらいにして、今日はグッチ一族の話です。・・・・・

    イタリア人グッチオ・グッチ少年は、裸一貫でイギリスに渡り、超一流ホテルのウェイターになります。

    そこで、大金持ちの荷物を運ぶ毎日でした。
    凡人なら、この退屈な仕事に嫌気がさしてしまうかもしれません。

    しかし、彼は金持ちとの会話の仕方を学んだばかりでなく、この単調な仕事から、ある決定的な情報をつかみます。

    どんな旅行用鞄を大金持ちが、好むのか?
    デザイン、素材、縫製のしかた、色、金具・・・

    1922年、グッチオ・グッチは、フィレンチェで、革製品の店を開きます。
    当時の革製品は、馬のサドルが中心でした。

    ◆◆しかし、彼はニーズを的確につかみ、一流職人に皮製旅行用鞄を作らせます。◆◆
    ◆◆ その旅行用鞄は、フィレンチェを訪れる旅行者の心をつかみ、◆◆
    ◆◆大評判を呼ぶようになります。◆◆

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    (2002/4/23)
    兄弟のライバル(2)

    GUCCIは、同族経営の会社でした。 グッチオには、息子が5人いましたが、家業を継いだのは2人です。

    三男アルドと五男ルドルフォ。
    グッチオは、二人の息子をライバルとして競争させ、GUCCIの基礎を確立します。

    三男アルドは、GUCCI発展にもっとも貢献した人物と言っていいでしょう。
    父親の反対を押し切り、拡大路線を推し進めて、海外展開も成功させます。

    アメリカで、GUCCIが売れていなければ、今日のGUCCIはないでしょう。

    GUCCIの二つのGをかたどったマークは、グッチオ・グッチのイニシャルです。 しかし、このマークを考え出し、ブランドとしての付加価値を限りなく高め、維持したのはアルドでした。

    一方の五男ルドルフォは、若い頃、家業を継ぐことに反発して、映画俳優を目指します。 イタリア映画の名作「線路」に出演するなど、一時注目されますが、最終的には挫折し、無一文まで落ちぶれます。

    父グッチオは、ルドルフォに救いの手を差しのべます。 こうしてルドルフォは、家業を手伝うようになります。映画界に顔の利くルドルフォは、ソフィア・ローレンやオードリー・ヘップバーンにGUCCIの顧客になってもらい、グッチの名声を高めることに成功します。

    しかし、仕事上の実績なら、ルドルフォは、アルドにはかないません。
    本来なら、GUCCI株の大部分をアルドが引き継ぐべきでした。

    しかし、ルドルフォは父親に愛されていました。

    最終的には、GUCCIの株は、半分ずつ平等にアルドとルドルフォに渡ります。
    それは、グッチ家の不幸の始まりでした。

    二人の兄弟は、反目しながらも微妙なバランスで関係を維持します。

    しかし、やがてルドルフォが亡くなり、一人息子のマウリチオがGUCCI株の50%を引き継ぎます。
    マウリチオは、おとなしい御曹司でした。彼だけなら、グッチ家の平和は、保たれたかもしれません。

    彼は、エリザベス・テーラーにそっくりな絶世の美女、パトリチアに心を奪われ、結婚します。
    パトリチアの性格は外交的で、GUCCI社長夫人への野心を抱いていました。

    御曹司といっても、これではアルドの使用人じゃないの。

    ◆◆気の弱い夫が、絶大な権力を握る伯父アルドを◆◆
    ◆◆打ち負かすには、どうしたらよいのかしら?◆◆

    ◆◆パトリチアは、毎日考え続けます。◆◆
    ◆◆ この続きは、明日発表します。◆◆

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    (2002/4/24)
    父と子の死闘(3)

    アルドには、3人の息子がいました。ジョルジョ、パオロ、ロベルトです。

    アルドは、40%の株を残し、10%の株を3人の息子に分け与えます。
    3.3%ずつの株を持たせて、役員会に参加させ、意欲を引き出そうとしたのです。

    息子の中で、アルドと性格が一番似ていたのは、パオロでした。 パオロは、絶対権力者アルドの意思に逆らい、独断専行が目に余るようになります。

    パオロはアルドに内緒で、中流階級まで顧客層を広げたPGブランドの製品を売り出そうと計画します。

    PGプランドは、量産され、売り出しの一歩手前まで進みますが、アルドに発覚し阻止されます。

    GUCCIのブランドイメージを傷つけかねないこの計画は、アルドの逆鱗に触れます。
    アルドは、親子の縁を断ち、パオロをGUCCIから永久追放します。

    パオロは、父への復讐を誓います。

    グッチ家3代の大株主
    第一世代 第二世代 第三世代
    グッチオ100% アルド50% アルド40%
    ジョルジョ3.3%
    パオロ3.3%
    ロベルト3.3%
    ルドルフォ50% マウリチオ50%

    GUCCI社長夫人を夢見るパトリチアは、アルドとパオロの親子喧嘩をチャンスと捉えます。
    マウリチオの50%とパオロの3.3%の株を合計すると念願の過半数を制することができるのです。

    夫マウリチオをそそのかして、パオロと共謀して、アルド追い出しのクーデターを起こします。

    1984年10月、アルドは、GUCCIの社長を解任されます。

    マウリチオは、株主総会で社長に就任します。
    今日からGUCCI帝国の独裁者。

    誰に気兼ねすることも要らないのです。
    アルドの3人の息子も新社長に従うしか道はありません。

    パトリチアの社交界における地位も上がります。
    パーティーに行けば、皆が一目置くスター。
    まさに、太陽がいっぱい。

    ◆◆アルドは、ジョルジョとロベルトに20%ずつの株を譲ります。◆◆

    ◆◆ しかし、アルドは、このまま、引退するような人物ではありませんでした。◆◆
    ◆◆反撃が開始されます。◆◆
    ◆◆明日は、休みます◆◆

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    (2002/4/26)
    血族争いの終点(4)

    1985年アルドは、「マウリチオは、秘書に父親のサインを偽造させて、GUCCIの株を相続した」と告発します。 元秘書が、証人として出廷したことで、マウリチオは、窮地に立ちます。

    管財人が選出され、裁判が終るまでマウリチオは、社長職から追放されます。

    アルド側も、返り血を浴びます。 1986年9月、アルドは740万ドルの脱税容疑で、法廷に立たされます。

    告発したのは、実の息子パオロでした。
    アルドに判決が下されます。
    罰金3万ドルと1年の禁固刑で、執行猶予はつきませんでした。

    81歳のファッション界のドンは、投獄されます。

    スキャンダルによるイメージダウンと管財人の素人経営で、GUCCIの業績は、不振を極めます。

    1988年、マウリチオが、会長に復帰を果たします。
    マウリチオに経営を任せるくらいなら、他人に株を売ったほうがいい。
    そう考えたジョルジョ、ロベルトそしてパオロまでが、株を売却します。

    売却先は、アラブ資本の投資銀行「インベストコープ」でした。

    1990年、アルドが失意のうちに亡くなります。
    「パオロをけっして一族の墓に入れてはいけない」と遺言して。

    1993年9月、経営に嫌気を感じたマウリチオは、全ての株をアラブ資本に売却します。 売却金額は、1億6000万ドルから1億7000万ドルと言われています。

    こうして、醜い血族間の争いの末、全てのグッチ家の人間は、GUCCIと関わりを持たなくなります。

    ・・・・・1995年3月27日、ミラノの朝・・・・・

    最後のスキャンダルが起こります。

    多くの目撃者のいる中、4発の銃声が轟き、元GUCCI会長マウリチオが射殺されます。
    現場からは、40代の男が逃走しました。

    ◆◆犯人は、マフィアか?それとも、会社を・・・?◆◆
    ◆◆ 事件は、迷宮入りと思われました。◆◆

    ◆◆ しかし、2年後、殺し屋の雇い主が捕まります。◆◆
    ◆◆犯人は、意外にも・・・◆◆

    (参考)「グッチ家 失われたブランド   中村雅人 NHK出版

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    (2002/4/26)
    最後のスキャンダル(5)

    1997年1月31日未明、ついに捜査員が、マウリチオ暗殺の犯人が住むミラノの高級マンションに踏み込みます。 待ち伏せしていた報道陣が、カメラのフラッシュをたきます。

    元GUCCHI会長夫人パトリチア逮捕の瞬間でした。
    碧色の瞳はうつろで、足取りは重く、手にはGUCCIのバック。

    事件の頃、パトリチアは、夫マウリチオと別居中でした。 彼から渡された生活費は、毎月1億リラ(約750万円)でした。 しかし、贅沢癖が身についたパトリチアは、その程度の生活費では満足することができません。

    離婚されないうちに、GUCCI株の売却代金を相続しなければ・・・
    そう考えたのかもしれません。

    1998年11月、ミラノ地方裁判所は、50歳の限りなき欲望を持つ女パトリチアに、判決を言い渡します。 
    禁固29年・・・彼女の残りの人生の大部分は、鉄格子の牢獄です。

    気の強いパトリチアは、二人の娘との面会を拒否していたそうです。

    一族の手を離れたGUCCIは、1994年天才的なデザイナー、トム・フォードをクリエイティブディレクターに就任させます。

    「攻撃的で野性味のある"セクシー"さ」を目指した彼の活躍でGUCCIはトップブランドに返り咲き、奇跡の再生を果たします。 パトリチア逮捕の頃の純利益は、1億5000万ドル(前年比85%増)でした。

    現在は、ニューヨークとアムステルダムの株式市場にも上場されています。

    さて、父を裏切ったパオロは、1987年独自のブランドで念願の勝負にでますが、一年も続かず挫折します。

    1995年パオロ死去。グッチ家の壮大な墓に入れず、リゾート地に埋葬されました。
    海に向いた風の強い丘にその墓はあります。

    家族の裏切り者は、死後もけっして許さない。
    アルドの怨念の凄まじさを感じます。

    アルドのもう一人の息子ロベルトは、グッチ家を再興しようと新ブランド「フィレンツェの家」を立ち上げます。

    GUCCIでの経験を生かし、高品質の製品を売り出そうとしたのです。

    ◆◆一族郎党が結集。お家再興の機運が盛り上がります。◆◆
    ◆◆一時は東京青山にも進出しました。◆◆

    ◆◆ しかし、あのGUCCIマークなしでは、日本人にアピールするはずもなく◆◆
    ◆◆撤退をせざるえませんでした。(完)◆◆

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