■経済史に学ぶ(戦後編2)■
ブラックマンデー (1987/10/19、NY株大暴落) |
1987年10月19日(月)、ニューヨーク・ダウ平均株価は、2247ドルから1739ドルへと、たった一日で508ドルも暴落します。 一日の暴落率(22.6%)としては、史上最悪の記録でした。(ブラックマンデー)
暴落の連鎖は、世界を一周します。20日の東京市場は、10億株の売り物が殺到、日経平均は、25747円から21910円へ史上最悪の3836円(14.9%)も暴落します。 バブル景気の揺籃期の日本株の値下がり率は、香港、シンガポール、ヨーロッパと比較すると、小さかったようです。
さて、アメリカにおける暴落の背景を振り返ってみましょう。
1987年のニューヨーク株は過熱気味でした。1月初め1927ドルから、8月25日には2722ドルと値上がりしています。
9月5日FRBのグリーンスパーン議長が、ドル不安対策として公定歩合を5.5%から6%に引き上げます。
アメリカの8月の貿易収支が10月14日発表され、156億8300万ドルの赤字になります。予想外の大きさでした。
しかし、暴落の新犯人は、別に存在したのです。
この頃、機関投資家は、コンピュータを使用して株取引していました。そのプログラムは、下げ相場になると先物を自動的に売ってヘッジするようになっていました。 下げが始まると、このプログラムがいっせいに発動して、先物が暴落します。
すると現物と先物に価格差が生まれ、裁定取引により、自動的に先物が買われ、大量の現物が売られます。
この結果、現物の下げが加速されるのです。
コンピュータを駆使した新システムの影響で、 螺旋の滑り台に乗って、株価は落下したのです。 |
◆◆アメリカが、この日の下げ幅を回復するのは、二年近くかかりました。◆◆
◆◆
一方、優等生日本は、世界の先陣をきって、◆◆
◆◆わずか半年後(1988年4月7日)、この下げ幅を回復するのです。◆◆
◆◆そして、悪名高い、バブル相場に突入するのです。◆◆
ニクソン・ショックと 輸出産業の打撃 |
この事件が起きるまで、ドルは金とリンクし、また1ドルは360円に固定されていました。1971年8月15日、ニクソン大統領は、世界に高まるドル不安に対処するため、金とドルとの交換を停止するとともに、一律10%の輸入課徴金を設定します。
声明発表後、西側各国は的確な反応を示し、自国の為替相場を、変動相場制に直ぐに移行させます。日本は、愚かにも移行が遅れ、8月26日変動相場制になります。(このため、多くの富が不当に海外に流失したと言われます。)
円相場は、高騰を続けます。混乱を収拾するため同年12月、アメリカのスミソニアン博物館における先進10か国蔵相会議が開催されます。会議ではドルの切下げ、円とマルクの切上げが行われ、1ドル308円と決定されました。(その後1973年2月完全な変動相場制に戻ります。)
この事件によって、輸出産業は、大打撃を受けます。特に、造船業界は、輸出船の建造契約がドル建であったため、約2400億円の為替差損をこうむります。また、競争力が弱体化したエレクトロニクス産業は、この年初めてマイナス成長になります。円高騰が輸出産業に深刻な影響をもたらすこと(今日では常識ですが)が明らかになった、最初の事件だと思います。
この事件をニクソン・ショック(または、ドル・ショック)といいます。
一方、アメリカは、金とのリンクが外れただけで、機軸通貨の地位が揺らぎませんでした。世界は、完全にドル本位制になったのです。
◆◆つまり、いくら赤字でもドルの垂れ流しができるようになったのです。◆◆
◆◆アメリカが今日金融面で強大化した、最大の要因に挙げられるでしょう。◆◆
湾岸戦争と株価の動き |
1990年8月2日、国境近くに集結したイラク軍は、クウェートに侵攻、暫定自由政府を樹立します。アメリカ、欧州、日本は、サダムフセインのイラクに対し、資産の凍結、石油輸入の禁止等の経済制裁を実施します。
当時の日経平均株価は、約30000円もしていましたが、大暴落。10月1日には、20221円と4年ぶりの安値となります。
1991年1月17日アメリカを中心とする多国籍軍は、「砂漠の嵐」作戦により、イラク空爆を開始します。湾岸戦争の勃発です。 戦争の開始と共に閉塞感が解かれ、日経平均株価は、かえって安定し、値上がりします。
1月22日、日本政府は、90億ドルの追加支援をアメリカ及び多国籍軍との間で合意します。
2月24日、多国籍軍が地上戦に突入、クウェート、イラクに侵攻します。
直ちに、多国籍軍の圧勝が明らかになり、株価は約3000円ほど上昇、約26000円となります。
2月28日、地上戦は、わずか5日で決着、湾岸戦争は、終結します。
イラクは、腹いせにクウェートの全油田に放火して、撤退します。
国際エネルギー機関は、戦争開始とともに、加盟している石油消費国に、備蓄中の石油から250万バーレルを取りくずすよう要請します。日本も責任分35万バーレルを取りくずし、石油危機の発生は未然に防げました。
その後の株価は、どうなったでしょうか?
◆◆クウェート侵攻で失われた株価は、その後は回復しませんでした。◆◆
◆◆6月20日証券スキャンダルが発覚し、◆◆
◆◆日経平均は長期の低落トレンドに戻ってしまうのです。◆◆
1993年冷夏・米不足 |
・・・今からちょうど10年前・・・
1993年夏。日本列島の気候は異常でした。梅雨前線は6月から西日本で活発になり、8月になっても本州付近に居座りました。7月から8月に計5個の台風が接近・上陸しました。
夏(6〜8月)平均の気温は全国的に1954年以降で最も低く、特に8月の平均気温は20地点で観測史上、最低を記録しました。 この結果、米の収穫量783.4万トンと、空前の不作となります。
米収穫量 | |
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1990年 | 1049.9万トン |
1991年 | 960.4万トン |
1992年 | 1057.3万トン |
1993年 | 783.4万トン |
1994年 | 1198.1万トン |
1995年 | 1074.8万トン |
1996年 | 1034.4万トン |
1997年 | 1002.5万トン |
1998年 | 896.0万トン |
例年なら新米が出回る頃、店頭から米が消えます。
私は、家族の要請を受けて、日曜日、米を求めて何ヶ所ものスーパーを歩き回りました。
しかし、とき既に遅し。なんと一袋の米も見つかりません。
米屋は、米を仕舞いこんでいますが、一見の客には売りません。
馴染みの客がくると、奥から米を取り出して売っているようです。
「ご飯を食べなくても、うどんやスパゲッティを食べればいいか」
と我が家は、すっかり諦めムードです。
この年、米泥棒が多発しました。
政府は、254万トンの米を緊急輸入します。
このとき登場するのが、細長いタイ米です。インディカ米は、ぱさぱさで粘り気がなく、チャーハンにするとおいしいのですが、白いご飯としては、まずくて食べられません。
何故、こんな昔話をしたかというと・・・
2003年8月2日、東京はようやく梅雨明けです。
平年(7月20日)より、13日も遅いようです。
◆◆8月の天気次第では、米不足が再現するかもしれません。◆◆
◆◆
そのときは、学習効果で、人より先に米の買出しですね。◆◆
1995年、円相場の高騰の 知られざる原因 |
1995年は、阪神大震災とオウム真理教事件のあった年ですが、
もう一つ忘れられないのが史上空前の円高です。
1995年3月、巨額の貿易黒字を背景に、円相場は80円台に突入します。
そして、4月19日、一ドル79円75銭の史上最高値をつけます。
その後、一進一退を繰り返しますが、何と7月末まで80円台に居座ります。
このレートで採算の取れる輸出企業はほとんどない、と言われ、関係者は深刻な事態を迎えます。海外進出を決断した中小企業も多かったと思います。
もちろん、巨額の貿易黒字が円高の主因ですが、もう一つの原因があったのです。
一年前の1994年のことです。外国人投資家は、逆に円安に賭けていました。
100円など高すぎる。おまけに超低金利。円を借りて、他の通貨に換え投機を行う。5年後円安になり、そのレートで返せば、為替差益が手に入る。
こうした思惑から、1994年多くのユーロ債が非居住者によって発行され、
その額は10兆円にも達しました。いわゆる円キャリ・トレードです。
このため円が必要以上に売られ、1994年は、13兆円もの巨額経常黒字にもかかわらず、100円前後の円安水準を維持できたのです。
ところが、この需要が収まると、円はじりじりと高くなります。
円安に賭けていた、外国人投資家は大慌て。
コスト低減どころか巨額の為替差損が発生します。
10兆円のうちのかなりの部分(一説では半分)が、1995年損切りされたのです。 外国人投資家の円買戻しのピークが、80円台の円高を招いたのです。 |
8月2日、榊原英資・国際金融局長が練り上げた、対外投資促進策が発表されます。
ジャパンマネーが欧米に還流する。この一瞬が、相場の転機でした。
この日、円は2円60銭も暴落します。
◆◆ジョージ・ソロスは、この日の相場で900億円儲けたそうです。◆◆
◆◆円は、一ヶ月後には100円台まで戻ります。◆◆
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最近の日本、逆に円安ですが、この話参考になったでしょうか?◆◆
(参考文献)「投機の円安、実需の円高」 リチャード・クー著 東洋経済新報社
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