■相場師列伝(第3巻)■

---目次---
  • 平成バブル崩壊とソロモン・ブラザース証券(前編)
  • 平成バブル崩壊とソロモン・ブラザース証券(後編)
  • 黄金の国ジパングと幕末のアメリカ商人(前編)
  • 黄金の国ジパングと幕末のアメリカ商人(後編)
  • 甲州商人・若尾逸平の生涯
  • 松井道夫の「ポイント・オブ・ノー・リターン」(前編)
  • 松井道夫の「ポイント・オブ・ノー・リターン」(後編)
  • 香港の巨人・李嘉誠と文化大革命(前編)
  • 香港の巨人・李嘉誠と文化大革命(後編)
  • 紀文の蜜柑舟伝説(前編)
  • 紀文の蜜柑舟伝説(後編)

  • (2000/12/16)
    平成バブル崩壊と
    ソロモン・ブラザース証券(前編)

    私にとって、最もつらい経験は、1990年の平成バブルの崩壊です。発表しようとも思いますが、なかなかその気にはなれません。

    ところが、この年、空前の利益をあげた証券会社があります。野村でも大和でもありません。外資系のソロモン・ブラザース証券が、巧みな方法で日本の市場を舞台に、安全かつ巨額の利益を手中に収めたのです。

    同社のこの勝負を、振り返って見ましょう。

    1989年11月9日、偶発的に、国境に押し寄せた東独市民により、ベルリンの壁が崩壊します。 資本主義が社会主義より優れていることが、誰の目にも明らかになります。

    株価の先高感が強まり、12月にはいり、
    日経平均先物と現物との差がなんと1000円以上開いてしまうのです。
    この先物高と現物安の異常格差が大問題だったのです。

    ブラック・マンデーなどで裁定取引の経験を深め、鍛え上げた外資系証券会社と比較して、日本の証券会社や投資家は、知識不足で無防備でした。

    ソロモンのトレーダーは、千載一遇のチャンスを逃さず、大きな勝負にでます。

    1989年12月上旬、同社は、現物買いの先物売り(3月限)の裁定取引をなんと1900億円分実施します。ソロモンの現物買いでバブルは、ますます膨らみます。 1989年12月末、日経平均は、38916円の史上最高値となります。この瞬間がピークだったのです。

    裁定取引は、株が上がろうが下がろうが利益には、影響を与えません。
    現物と先物の差がどう変化するかで勝負が決まるのです。

    1990年大発会以来、株価の不振が続きます。この値動きから、同証券のトレーダーは、日本株バブルの崩壊を確信します。

    1900億円分の裁定取引から、最大の儲けを引き出すにはどうしたらよいか? 思案を重ねます。

    ◆◆そして、バブル崩壊を促進するための秘策を思いつきます。◆◆
    ◆◆ 1990年1月11日、その秘策は実行に移されます。◆◆
    ◆◆ この続きは、明日発表します。◆◆

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    (2000/12/17)
    平成バブル崩壊と
    ソロモン・ブラザース証券(後編)

    ソロモン証券は、日本株の暴落へ備え、大量のプット(株を一定価格で売る権利)を買います。そして、ほぼ同時期の、1990年1月11日、不人気の国債の入札に参加、600億円分を購入します。

    同社は、大証で購入した日経平均のプットの一部をもとに、アメリカ中の顧客に「日本株売りファンド」を販売します。(簡単にいうと一定金額を払い、日経平均が下がると下がった分だけ利益の出るファンドです。)

    これで、準備完了です。

    1月16日、ソロモン証券は、買って間もない大量の国債を、損を承知で投売りします。国債価格は暴落して、金利は暴騰します。日経平均と長期国債の金利のグラフの90年1月を見ると、両者の関係がよくわかります。

    金利の上昇をきっかけに株価は下落、先安感が支配的になります。国債で損をしても、株がそれ以上に暴落すれば、同社は儲かるのです。

    そして、運命の2月26日が巡ってきます。

    先安感が強くなると、現物より先物のほうが早く下がる傾向があります。この日、日経先物は、ストップ安になります。

    ソロモン証券は、この機を逃さず、大量の裁定取引を解消して巨額の利益を確定します。
    下がりきった先物を買い戻し、大量の現物を売ったのです。

    1990年2月26日同社の大量の現物売りが、東京市場に衝撃をもたらします。
    日経平均は、34891円から33322円へとたった一日で4.5%も暴落します。

    当時、日本の投資家(私もその一人)は、裁定取引についての知識がありませんでした。
    翌日の朝刊には、外資系証券会社の裁定取引が暴落の原因、と書いてあります。

    「なにか得体の知れない、ヌエのようなアメリカの怪物が
    コンピュータを使って暴れまわり、日本市場を破壊している。」
    そんな印象でした。

    ソロモンと同社から「日本株売りファンド」を買ったアメリカ国民は、日本株の暴落で膨大な利益をあげます。

    ◆◆無知で未開な市場は、◆◆
    ◆◆先進技術を持ったアメリカ人に収奪されてしまうのですね。◆◆
    ◆◆ 二度とこうしたことがないことを、日本人として望みます。◆◆

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    (2001/1/11)
    黄金の国ジパングと
    幕末のアメリカ商人(前編)

    1858年、井伊直弼が勅許を得ずに、日米修好通商条約を締結します。
    この条約に基づき、1859年6月神奈川(横浜)・長崎・函館の三港が開港されます。

    長い鎖国が終了し、野心に燃えた外国人が来日、貿易を開始したのです。 そのアメリカ人の若者も開港間もない横浜に上陸したのです。名前は、調べても解かりませんでした。しかし、確実に実在したはずの人物ですので、仮にスミスとでも名づけましょう。

    彼の父親は、大金持ちの商人でした。彼は、父から借りた一万枚の洋銀を持って、来日します。

    洋銀とは、メキシコドルのことで、一枚当たり24.1gの銀を含有していました。
    この貨幣は、アジア貿易で使用されるのに最も適していたのです。

    彼は、日米間の貿易を行うつもりだったのです。日本は、生糸やお茶が安いので、アメリカに輸出すれば、莫大な富が稼げるはずです。

    スミスは、横浜で両替商の日本人と仲良くなります。日本人は、異様に背が低いが、信頼は出来そうです。洋銀は、日本の通貨と換えておいたほうが便利です。

    当時の公定レートは、「天保一分銀3枚=洋銀1枚」でした。天保一分銀には、8.5gの銀が含まれており、銀の含有量がほぼ等しい交換でした。

    彼は、1000枚分の洋銀を天保一分銀3000枚と交換しようとします。ところが、両替商は、天保一分銀の持ち合わせがありませんでした。 そこで、天保小判750枚(750両)と交換したいと申し出たのです。

    つまり、「4分=1両」だったのです。

    手数料は、わずかの金額でした。スミスは、体中から沸き起こる歓喜を抑えながら、冷静に取引を続け天保小判を持ち帰ります。
    形は平べったいが、ずっしりと重い。金貨には間違いないようです。
    削ってみます。中身も本物の黄金です。

    そして、アルキメデスが王冠の金の純度を調べた方法で、天保小判の金の含有量を突き止めたのです。 何と、品位は57%、6.4gもの黄金が天宝小判には、含まれているのです。

    日本では、銀と金の交換比率が5対1なのです。
    これは、信じられない大発見でした。

    何故ならば、世界標準の銀と金の交換比率は、15対1だったのです。
    なんと約3倍も違うのです。

    ◆◆天に駆け上る螺旋の無限階段が、彼の前に忽然と現れます。◆◆
    ◆◆ 洋銀→天保一分銀→天保小判→洋銀→天保一分銀→天保小判→洋銀・・・・・◆◆

    ◆◆ スミスは、迷わず迅速な行動にでます。◆◆
    ◆◆ この続きは明日発表します。◆◆

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    (2001/1/12)
    黄金の国ジパングと
    幕末のアメリカ商人(後編)

    スミスは、秘密裏に全洋銀を7500枚の天保小判に換えます。アメリカに持ち帰るのは、時間がかかりすぎます。そこで彼は、中国の上海に行き、イギリス商人と交渉、小判を2万7000枚の洋銀と交換します。

    大分、足元を見られました。しかし、時は金なりです。

    横浜に帰ったスミスは、両替に走り回ります。そして、再び上海へ。 三度目の横浜。洋銀は、7万2000枚に増えます。アメリカ人やイギリス人の競争相手が増えて、商売がやりにくくなります。

    四度目の横浜。洋銀は、なんと15万枚に膨らみます。日本人が、天保小判の価値に気づき、出し惜しみするようになります。レートを落として、必死に小判を掻き集めます。

    ついに、黄金の螺旋階段が、蜃気楼のように消える日がきます。

    1860年(安政7年)2月、幕府は、「直増通用令」を公布します。
    天保小判の対銀レートが、3倍に引き上げられたのです。

    そして、1860年(万延元年)4月、金の含有量が3分の1に減らされた、万延小判が発行されます。

    日本の金銀交換比率が、国際標準に一致したのです。万事休す。しかし、もう充分です。
    アメリカで待つ恋人が懐かしくなります。

    スミスは、アメリカへの帰国を決意します。
    もう貿易などする必要は、ありません。

    彼は、黄金の国ジパングから戦利品の10万両の天保小判を持ち帰ります。
    冒険航海を終え、巨万の富を築いた、シンドバットのように・・・

    この一年間で、米英の商人により、日本から海外に流失した小判は、約50万両と言われています。それは、日本で流通していた小判の約2%に達するそうです。

    ◆◆金の流失を食い止めた、万延小判ですが、◆◆
    ◆◆この小判は、大変な衝撃を幕末の庶民にもたらすのです。◆◆

    ◆◆ この続きは、真面目で人気のないページ◆◆
    ◆◆「経済史に学ぶ」で、明日発表します。◆◆
    ◆◆ でも、すごく参考になりますよ。◆◆

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    (2001/2/8)
    甲州商人・若尾逸平の生涯

    1820年(文永3年)、若尾逸平は、巨摩郡在家塚村(現白根町)の貧しい農家の子として生まれました。

    裸一貫、天秤棒一本を担いだ行商から身を起こし、少しづつ資産を蓄えます。

    そして、1859年長い鎖国が終了し、横浜が開港されます。千載一遇のチャンスを、彼は見事に捉えます。 故郷甲州の生糸を横浜に運び、巨額の利益を得たのです。

    やがて、商人同士の生き残りを賭けた競争が始まります。彼は、優れた発明家でもありました。 甲州島田糸の製造機を改良して、若尾式機械を造ったのです。彼の工場はフル稼働して、品質の良い、低コストの生糸が供給できるようになったのです。

    これが、決定的な成功の要因となりました。

    1876年、ヨーロッパの蚕が伝染病で全滅します。この原因を究明しようと設立されたのが、パスツール研究所です。日本の生糸に需要が殺到し、価格は暴騰、若尾は大儲けをします。

    1878年(明治11年)6月、東京株式取引所が創立されます。
    若尾は、生糸貿易で得た豊富な資金を株に投資します。

    これからの時代を切り開く新しいものは、何か?
    熟慮の末、「鉄道とあかり」が選ばれました。

    1882年(明治15年)に創業した新橋と日本橋間の鉄道馬車の買収を手始めに、東京市街鉄道、東京電灯会社、東京正金銀行などを次々に手に入れます。

    彼は、兜町の主役でした。山一證券の創業者、小池国三は、山梨県出身で若尾逸平に師事しました。小池はその恩を忘れず、若尾家の家紋「山に一」を会社のシンボルマークにしています。 後に、このマークは社名にもなりました。

    ◆◆若尾逸平は、軽井沢を開発した同業者・雨宮啓次郎とともに◆◆
    ◆◆甲州財閥の始祖と言われています。◆◆
    ◆◆初代の甲府市長や貴族院議員として活躍しています。◆◆

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    (2001/2/13)
    松井道夫の
    「ポイント・オブ・ノー・リターン」(前編)

    松井道夫は、松井証券に入社する以前、日本郵船の定期船部門で働いていました。 昔、世界の海運会社は、政府公認のカルテル、海運同盟で運賃を守られていました。

    ところが、海運同盟が80年代崩壊します。短期間に、運賃は大暴落して、業界はいくら努力しても追いつかない、生き残りを賭けたコスト競争に突入します。

    この時の経験が、松井の人生に影響を与えたのは、間違いないと思います。

    運命のめぐり合わせで、松井道夫は、松井証券社長の一人娘・千鶴子と結婚します。そして、1987年、日本郵船を退社して、義父の経営する、従業員100人の地場証券の老舗、松井証券に入社します。

    当時の松井証券は、営業マンが外回りで誠心誠意努力して、大口客の心をつかみ注文につなげていました。

    手数料は規制され全社同じ、海運同盟と似ています。
    「こんなことは、長くは続くはずがない」と松井は、確信します。
    当時は、証券会社の全盛期、新人役員の松井が口をはさめるはずありません。

    1990年バブル崩壊、松井証券は大幅減益となり、
    彼の信念を実行するチャンスが訪れます。

    彼は、女子社員を使い電話営業を始めます。
    多額の新聞広告を使い、費用のかかる外回りをやめたのです。

    91年11月、有利な発行済み割引債を個人に販売したことが評判になり、口座数が5千から2万に増加します。 松井は、自分のやり方に自信を持ち始めます。

    しかし、社内での軋轢は、次第に深刻になり、営業部長、次長、営業課長の三人が辞表を提出します。

    頼れる営業の人材はもういません。

    松井は、「ポイント・オブ・ノー・リターン(帰還不能地点)」という言葉をよく使います。 航空用語で、出発地に帰ろうとしても燃料不足で帰れなくなる地点のことだそうです。 この地点を過ぎると、目的地に、ひたすら突き進むしかないのです。

    この三人がやめた瞬間が、松井のポイント・オブ・ノー・リターンでした。

    ◆◆1995年6月、松井道夫は、社長になります。◆◆
    ◆◆そして、証券業界全体を「あっ」と言わせた秘策を打ち出したのです。◆◆
    ◆◆ この続きは明日発表します。◆◆

    (参考文献)「ビジネス戦記」  朝日新聞「ウィークエンド経済」

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    (2001/2/14)
    松井道夫の
    「ポイント・オブ・ノー・リターン」(後編)

    日本証券業協会の規則では、保護預り手数料は、3000円以内との取り決めがありました。 現実は、大手証券会社は3000円、中小証券会社は2000円の手数料に統一されていたのです。

    松井は、保護預り手数料を半額の1,000円にする秘策を打ち出します。

    証券業界は、大騒動となりますが、規則の不備を逆手にとって押し通します。 そして、1996年4月には無料にします。業界全体がこれに追随すると、1997年1月、店頭公開株の手数料を半額にします。

    松井道夫の幸運は、インターネットが登場したことです。
    1998年5月、松井証券は、インターネット取引に進出します。

    そして、1999年10月、待望の証券会社のビックバンが始まります。
    松井道夫の読みが的中し、株取引手数料が自由化されたのです。

    松井証券は、インターネットによる株の売買のシェアの25%を占めています。特に、電話営業時代からのノウハウを積んだ信用取引は最大の強みです。昨年8月には、信用取引で、野村証券(ネット以外も含む)を抜いて業界首位に躍り出たようです。

    「出る杭は打たれる」で、松井証券に対して、次のような噂が囁かれています。

    「信用取引シェアトップに立ち、営業マンのいない松井証券は、
    決済不能になった顧客の損失を膨大に抱えている」

    真偽はよくわかりませんが、決算を見る限り、この噂は信用できません。
    2000年3月期、松井証券は、8億6200万円の利益を計上しています。

    赤字体質のネット証券が多い中、この成績は注目に値します。私は、いくらサービスがよくても、赤字会社を信用しません。

    将来は、手数料市場は、単価の引き下げから数分の一の規模に縮小して、何万人もの証券営業マンが失業するでしょう。
    大多数の証券会社は、生き残れないでしょう。
    それが、ビックバンの真実の過酷な姿です。

    さて、証券業界の未来をノストラダムス風に予言すれば・・・

    アテネの年、不死身と思われた老いた龍が、
    蜘蛛の巣の世界を平定した若き獅子に倒される。

    ◆◆龍の名はノムラ、獅子の名は不明ですが、◆◆
    ◆◆今のところ彼が一番有力ではないでしょうか?◆◆

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    (2001/5/31)
    香港の巨人・李嘉誠と文化大革命
    (前編)

    1959年、劉少奇が、毛沢東に替わって国家主席に就任します。政治の実権は、次第に劉少奇、ケ小平を中心とした実務派が握ります。

    毛沢東は、この事態に危機感を覚え、政権奪還を決意します。
    共産党内は、実務派が地盤を築いており、手出しできません。

    当時の中国では、毛沢東の神格化教育が子供達に対して、実施されていました。

    「そうだ!」百戦錬磨の毛沢東に名案が浮かびます。

    ・・・・・・・・・・・・

    李嘉誠(リカシン)は、1928年広東省潮州の貧しい家庭に生まれました。

    彼は12歳の時、生活苦から香港に移り住みます。
    14歳の時には、丁稚として働かざるを得ませんでした。
    17歳の時、プラスチック工場に就職し、才覚を発揮します。
    その工場で、一生懸命働き、やがて独立します。

    そして、最初のチャンスが訪れます。欧米でプラスチックフラワーが大流行したのです。

    彼は、1957年に長江工業(後の長江実業)を設立、香港フラワーの大量生産に成功し、欧米向け輸出で財産を築きます。

    彼は、広大な土地を購入して工場用ビルを建て、自社工場を移転しただけでなく、残りを賃貸工場にします。

    これを契機に、李嘉誠は、不動産事業に本格的に進出します。

    ところが、文化大革命の嵐が香港に飛び火して、
    香港の不動産事業者は、窮地に追い込まれてしまうのです。

    ・・・・・・・・・・・・

    その政治闘争は、1965年、文芸作品の思想闘争から始まったと言われています。

    1966年、大学に集まった若者たちは、「毛沢東語録」を振りかざし、
    「造反有理(反抗には道理がある)」といっせいに叫びます。

    若者たちは、紅衛兵と呼ばれ、共産党の実務家、修正主義者、旧資産家、旧国民党員、文化人、大学教授、日本人残留孤児などに、自己批判のプラカードを首にかけて、市内を引きずりまわします。

    経済、社会は大混乱に陥りますが、毛沢東の敵を倒すためには、容赦することは出来ません。

    1968年「実権派の最高指導者」と烙印を押された劉少奇は、共産党を除名され、失脚します。
    そして、紅衛兵たちに、徹底的な辱めを受けながら、失意の内に翌年帰らぬ人となります。

    ◆◆この中国にとって不幸な政治闘争は、◆◆
    ◆◆「文化大革命」と呼ばれています。◆◆
    ◆◆ この続きは、明日発表します。◆◆

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    (2001/6/1)
    香港の巨人・李嘉誠と文化大革命
    (後編)

    文化大革命の最中、文革派の中には、香港の武力開放を主張する者が存在しました。 北京のイギリス代弁処(大使館に相当する)が、放火されます。

    多くの香港の資産家は、工場、店舗、住宅などの不動産を投売りして、
    カナダ、アメリカ、東南アジアに脱出しようとします。

    不動産価格は、大暴落。いくら安くても買い手がつきません。

    不動産事業に進出を果たしていた李嘉誠も、手持ち不動産の大暴落で痛手を受けます。

    不動産事業から撤退すべきか?
    踏みとどまるべきか?

    それとも・・・・

    投機家、李嘉誠は、人生最大の勝負に出ます。

    彼は、文化大革命に起因する土地の大暴落を絶好のチャンスと捕らえます。
    巨額の借り入れを行い、買い手のつかない土地を徹底的に叩いて、買い漁ったのです。

    ・・・・・・・・・・・・

    1973年ケ小平が復活し、実務派は巻き返しを図りますが、文革派も負けていません。
    江青たち四人組が、実務派の周恩来批判を行い、両派のにらみ合いが続きます。

    そして、1976年の毛沢東が逝去して、力のバランスがついに崩れます。四人組は、逮捕されます。

    10年以上続いた不毛の文革は、ついに終結します。

    ・・・・・・・・・・・・

    香港武力開放のデマが収まると、香港経済は好景気となり、土地は値上がりに転じます。 もともと土地が狭い香港です。オフィスビルの賃貸料も上昇の一途を辿ります。

    その上、文化大革命が進むと、中国大陸から多くの人が香港に逃亡します。
    人口の増加は、土地に対する需要を、ますます喚起します。
    李嘉誠は、土地の開発事業で大成功を収めます。

    土地投機の成功は、李嘉誠に香港最大の財閥になる、きっかけをもたらしたのです。

    1979年、英系の名門コングロマリットのハチソン・ワンポア(和記黄埔)の経営不安に乗じて、買収に成功し、世間を驚かせます。

    小が大を呑む大事件でした。

    また、昨年、李嘉誠の次男のリチャード・リーは、香港テレコムを買収しました。香港最大の通信会社を英系企業から手に入れたのです。

    ◆◆今の時代の土地に替わる投機のターゲットは、◆◆
    ◆◆通信会社なのでしょうか?◆◆

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    (2001/6/11)
    紀文の蜜柑舟伝説(前編)

    元禄時代のその年は、台風の当たり年でした。

    有田蜜柑の摘み取りが終わり、例年なら江戸への船積みが行われるはずでしたが、この嵐では江戸回り船の男たちも出発できません。

    そのとき、莫大な借財を背負った山屋文左衛門には、一艘の弁財舟しか財産が残されていませんでした。 この船もこのままでは、借金の形に取り上げられてしまいます。なんとか、しないと・・・

    毎日しけが続き、収穫された蜜柑は、大坂方面に出荷するしかありません。大坂商人は、足元をみて蜜柑を買い叩きます。一篭銀10匁、どうしようもない暴落価格ですが、腐らすよりはよいでしょう。

    「千載一遇のチャンス到来」
    文左衛門は、勝負に出る決意を固めます。

    江戸では、ふいご祭り用の蜜柑が必要なはずです。ふいご祭りは、立冬(11月8日)に行われる、鍛冶屋などのふいごを使う職人たちの行事です。この日は、蜜柑をお供えして、近所の子女に蜜柑撒きをする風習が定着していたのです。

    今ごろは大量の需要をひかえ、蜜柑不足で困っているはずです。
    価格も高騰しているに違いありません。
    ひょっとして、数倍に売れるかもしれない。

    しかし、この荒れ狂った海をどう渡ればよいのでしょう?

    文左衛門は、3倍の手当てを約束して乗組員を確保します。

    彼らは、白装束を着て頭には三角の布をかぶります。
    冥土に行く決心で、船に乗り込んだのです。

    浸水を防ぐために、大量の松脂が船底に塗布されます。
    1200両の元手で、7000篭の蜜柑の船積みが終ります。
    資金は、蜜柑業者が立て替えてくれたのです。

    ◆◆「難破して、死ぬぞ」多くの船乗りがあざ笑います。◆◆
    ◆◆ しかし、文左衛門には、秘密兵器がありました。◆◆
    ◆◆ この続きは、明日発表します。◆◆

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    (2001/6/12)
    紀文の蜜柑舟伝説(後編)

    紀伊半島を越えて、思い切って沖に進路をとれば、黒潮の流れに乗って下田まで行くことができます。
    しかし、陸地の見えない沖に進路をとるのは、あまりに危険です。

    文左衛門の秘密兵器は、船磁石でした。
    磁石の針は、船を正しい方向に導いてくれるのです。

    大波が、弁財舟を叩き、竜骨はきしみます。
    縦揺れ、横揺れが乗組員を翻弄します。
    しかし、彼らは、文左衛門を中心に団結し、嵐と戦います。

    さて、3日が過ぎました。
    江戸は、台風一過の日本晴れ。

    職人たちが、ふいご祭りの準備をしています。
    「昨晩の嵐じゃ、今年は蜜柑をあきらめないとね。」

    彼らが、ふと海を見渡すと・・・・・

    沖の暗いのに、白帆が見える
    あれは紀の国、蜜柑舟

    船の舳先には、白装束の文左衛門が、嬉し涙を浮かべて立っていました。

    蜜柑不足に悩んでいた江戸の町人たちは、大歓声をあげて文左衛門を迎えます。
    蜜柑は、なんと30倍の3万5000両で売却できました。借金を返しても数隻の船が買える金額です。

    その上、文左衛門の活躍は、すっかり有名になり、カッポレに歌われるようになります。

    そして、紀州藩主に文左衛門は呼び出されます。

    「そのほうの活躍は、あっぱれ。紀州藩の誉れじゃ。
    これからは、山屋を改め、紀伊国屋文左衛門と名乗るがよい。」

    ◆◆紀文は、後に材木の商売で富豪となります。◆◆

    ◆◆ 蜜柑舟伝説は史実でないとの説もありますが、◆◆
    ◆◆相場師の神髄を捕らえた心に残る話だと思います。◆◆

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