■歴史の玉手箱7■

---目次---
  • フランス革命とフリーター問題(前編)
  • フランス革命とフリーター問題(後編)
  • 森の黄金(前編)
  • 森の黄金(後編)
  • 北前船(前編)
  • 北前船(後編)
  • バレンタインデー物語(前編)
  • バレンタインデー物語(後編)

  • (2005/4/3)
    フランス革命とフリーター問題
    (前編)

    18世紀後半、フランス革命の頃、フランスには3つの身分がありました。

    第一身分の僧侶の人口は14万人(0.56%)で、土地の10%以上を所有していました。
    僧侶の出身母体は、大司教(18人)と司教(121人)が貴族、残りは平民でした。

    第二身分の貴族の人口は40万人(1.6%)で、土地の25%以上を所有していました。

    二つの身分は、特権階級として、税金を支払わなくてもすみました。

    第三身分の平民は、市民(450万人、18%))と農民(2000万人、80%)からなります。平民の中には、大地主などもいましたが、多くの労働者、貧農、小作人は重税で生活に苦しんでいたのです。

    ・・・・・・・・・・・・

    東京都の最低賃金は、時給が約800円。 8時間労働、週休2日、年間240日働くと1,536,000円となります。

    これがフリーターの年収150万円説の根拠でしょう。

    親の脛をかじっていないフリーターなら、月額13,580円(2005年4月)の国民年金を払うのは不可能です。 フリーターには、ボーナスも退職金も年金もないのです。

    30才代の正社員なら、同じ仕事をしても3倍の税込み年収がもらえるでしょう。

    内閣府の平成15年国民生活白書(2003年5月末発表)によれば、フリーターは417万人に達したそうです。 10年前の1993年の215万人と比べると1.94倍に増加しています。

    若年人口(15〜34歳)の12.2%、学生・主婦を除いた若年人口の21.2%がフリーターなのです。参考

    ・・・・・・・・・・・・・・・

    1765年ワットは蒸気機関を発明し、イギリスで産業革命が始ります。大量生産でコスト競争力を得たイギリス製品は、ヨーロッパ大陸に輸出されます。
    フランスの産業は、追いつめられ、失業者が溢れます。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・

    1978年、ケ小平の改革開放政策の決断は成功し、中国の製造業は躍進し続けます。
    そして、今日、日本の製造業は、空洞化と中国製品の輸入に圧迫されることになります。

    ◆◆フリーターを雇う側にも、理由があります。◆◆
    ◆◆ 競争が激しく、フリーターでコストの合理化をしないと生残れません。◆◆

    (参考HP)フランス革命大解剖

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    (2005/4/4)
    フランス革命とフリーター問題
    (後編)

    フランスは、アメリカの独立戦争を助け、イギリスに一矢を報います。
    しかし、莫大な負担はフランスの財政を破綻させます。

    対策として、平民に対して過酷な増税が実施されます。

    フランス革命の頃の農民の話です。

    農民が12束収穫します。
    来年の種子用に2束、耕作費用に3束は、残さなければなりません。
    領主に3束、教会に1束、国に2束が、税金として没収されます。

    手元に残るのは、僅か1束。
    これでは、生きていけません。

    ・・・・・・・・・・・・・・・

    2004年末の日本。

    政府債務残高の名目GDPに対する割合は、149.8%に達します。参考

    財政を再建するには、増税は不可欠です。

    所得税、社会保険料、消費税などの負担の増大は、フリーターの生活をますます脅かすでしょう。
    少子高齢化で、年金制度の未来にも厳しいものがあります。

    ・・・・・・・・・・・・・・・

    野心家オルレアン公の自宅(パレ・ロワイヤル )は、旧体制に不満を持つ人々が集っていました。

    29歳の青年カミーユ・デムーランの演説が歴史を動かします。

    「早すぎる死か。永遠の自由か。さあ、武器を取れ!」

    パリの群集は、立ち上がります。
    1789年7月14日 、圧政の象徴・バスティーユ牢獄を襲い、陥落させます。

    ・・・・・・・・・・・・・・・

    今の日本では、まさか革命までは起きないでしょうが・・・

    ◆◆しかし、フリーターの不満が爆発寸前になるとき、◆◆
    ◆◆過激な富の再配分が起こるような気がします。◆◆

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    (2004/7/13)
    森の黄金(前編)

    ロシア人は、13世紀以来、モンゴル人(タタール人)の苛酷な支配下にありました。 1476年、経済力をつけたモスクワ公国はキプチャクハーン国への貢物の献上を断ります。

    1480年、モンゴル人(タタール人)は騎馬軍団を派遣し、イヴァン3世率いるモスクワ公国軍とウグラ河畔で対峙します。

    しかし、無敵のはずのタタール軍は、モスクワ攻略を諦め、ついに撤退を開始します。 250年にわたる「タタールのくびき」から解放されルーシー(後のロシア)が独立したのです。

    その後、モスクワ大公国は、東方へ発展し続けます。

    16世紀中ごろには、ウラル山脈の西に広がるタタール人の二つの国家を征服します。

    ウラル山脈の東は、耕作されることもなく、人がほとんど住んでいない土地でした。しかし、イヴァン4世の庇護のもとストロガノフ家が、この地域の開拓を引き受けました。

    彼らが不毛な土地を求めたのには、経済的な動機がありました。この頃、ヨーロッパの王侯・貴族の間で、毛皮が流行していました。

    男性に好まれたのは、猫より少し大きい程度のイタチ科の小動物の毛皮です。その毛皮は、毛足が長く、柔らかく、肌触りがよく、光沢がある。最高品質、まさに毛皮の王様。

    色は黒褐色から黄褐色まで様々ですが、黒に近いほど高値で取り引きされました。
    森の黄金・・・黒テンの毛皮

    黒テンの毛皮を身につけることは、貴族達のステータスシンボルだったのです。

    高価な黒テンを求めて、猟師たちは、未開発の森に侵入しました。
    主にリスを捕食する黒テンの生息数は、それほど多くありません。

    ◆◆その森の黒テンは乱獲され、やがて絶滅します。 ◆◆

    ◆◆猟師たちは、収入を得る為には、◆◆
    ◆◆さらに東の新天地を目指す必要があったのです。◆◆

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    (2004/7/17)
    森の黄金(後編)

    ウラル山脈の東は、クチュム・ハーンが率いるシビル・ハン国が支配していました。シベリアとは、シビル・ハン国が語源なのです。

    同国は、モスクワ大公国に表向きは従っていました。モスクワ大公国は、同国に対しに毛皮税の支払いを命じます。シビル・ハン国は、年間1000枚の黒テンの毛皮などを献上しなくてはならなかったのです。当時、毛皮は、モスクワ大公国の収入の1/3を占めていたのです。

    さらに、ロシア人はシビル・ハン国勝手に侵入し、領土を開墾して、貴重な黒テンを乱獲し出したのです。

    毛皮資源は、激減するのに毛皮税は以前のままです。
    圧政に耐えかねた先住民族やタタール人は、猛反発します。

    当然のことながら、シビル・ハン国は、毛皮商人の元締めストロガノフ家に敵対するようになります。

    ストロガノフ家は、勇猛なコッサクから私兵を募り、銃などの近代兵器を与えます。コサックとは、ロシアの農奴が圧政を逃れ、武装化した集団で出身民族は、様々です。

    ストロガノフ家の軍隊の首領イェルマークは、元盗賊団のリーダーで、指名手配中でした。
    1578年、彼は、シビル・ハン国の侵略を開始します。

    シビル・ハン国軍の武器は、弓矢と槍
    イェルマーク率いるコサック兵の武器は、銃と大砲

    「戦争の大義」は、シビル・ハン国側に、「圧倒的な武力」はイェルマーク軍側にあったわけです。

    ・・・1582年10月26日・・・

    僅か数百名のコサック兵は、シビル・ハン国の首都イスケル(現在のトポリスク)を陥落させます。

    イェルマークは、シビル・ハン国の領土と先住民から奪った2400枚の黒テンの毛皮をイヴァン雷帝に献上します。彼は、盗賊時代の罪を許されたばかりか、皇帝が愛用していた毛皮の外套などを貰います。

    征服者に勇気がたたえられ、モスクワ中の教会の鐘が鳴り響きました。
    一方、先住民族は惨めに屈服するか、絶望的な戦いを続けるかしか選択肢はありません。

    その後も毛皮を求めて、ロシアは、先住民族を征服し、シベリア侵略を続けます。
    1601年北極圏のマンガゼーヤ、1619年エニセイ川上流のエニセイスク、1648年には、ユーラシア大陸東岸のニジネコリムスクに達します。

    ◆◆最後に余談◆◆

    ◆◆ ハヤシライスによく似たロシア料理、ビーフストロガノフは、◆◆
    ◆◆ストロガノフ家の料理人が創作したのが語源です。◆◆

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    (参考文献)「毛皮と人間の歴史」 西村三郎著


    (2004/2/16)
    北前船(前編)

    蝦夷地から日本海を航行し、関門海峡から瀬戸内海に入り、天下の台所大坂に達するのが西回り航路です。 この航路は、1672年に河村瑞賢によって、整備されました。

    江戸時代後期から、明治時代初期には、海の道は、経済の大動脈となります。
    この航路を一年かけて往復し、物資を運んだのが北前船です。

    北前船の別名は、バイ船です。
    名前の由来は、一年間で、元手を2倍に増やすことが出来たからです。

    1500石船が、一航海で得る儲けは、千両に達しました。

    北前船は、大坂の木津川の支流で、越冬します。
    船乗りが最も恐れる冬の日本海を避けるためです。

    春になると米、清酒、味噌、衣服などを積み込み、出発です。
    西の下関に向かい、日本海にでます。

    境、敦賀、金石、新潟、能代・・・
    各港に寄りながら、蝦夷地の松前に到着です。

    この間、各地で交易を行い、北前船は、全体の3割の儲けを出します。
    下り300両。

    最北の目的地につくのが、6月頃。
    蝦夷地で、北前船は、最も利幅の大きい二つの商品を買い集めます。

    肥料用干鰊とコンブ

    宝物を満載できたら、出発です。7割の儲けは、帰路で稼ぐのです。
    上り700両。

    藍、菜種油、綿、いぐさ・・・西日本で、換金作物を作るには、魚の肥料が不可欠でした。ニシンから、低コストで作られる肥料が、これらの作物の栽培を可能にしたのです。

    藍染めの木綿の服、灯り、畳・・・
    江戸時代、町人の暮らしは豊かになります。

    コンブは、日本中で珍重され、日本人の食文化に不可欠なものとなりました。
    さて、北前船を支配したのは、大坂人ではありません。

    ◆◆海の豪商が住んでいたのは、日本海側。◆◆

    ◆◆ 1773年(安永2年)加賀の国、宮越(現在の金沢市金石町)で、◆◆
    ◆◆その男は、生まれました。◆◆

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    (2004/2/17)
    北前船(後編)

    その男の名は、銭屋五兵衛。宮腰で金融業や醤油醸造業を営む銭屋の7代目です。彼が、本格的に海運に乗り出すのは、54歳の時です。

    北前船は、驚くべき富をもたらします。

    海運業者にとって、もっとも恐いのは、海難事故で船と積荷と乗組員を同時に失うことでした。当時の年平均の海難事故率は、約3%といわれています。

    五兵衛は、羅針盤や望遠鏡を手に入れ、安全な航海が可能になります。「北陸の平賀源内」と呼ばれた、天才カラクリ師・大野弁吉が航海道具を製作したと言われています。

    巨万の富を手に入れた、五兵衛は、次々と船を建造し、事業を拡大します。

    松前、新潟、酒田、大坂、長崎、江戸・・・24ヶ所に銭屋の支店網が整備されます。
    そして、本店の置かれた加賀・宮腰は、北陸最大の港として、発展します。

    生糸や絹織物などの産業が育成され、五兵衛の支払う莫大な御用金は、加賀藩を繁栄させます。

    五兵衛は、鎖国の禁を破り、海外と密貿易を行っていたようです。
    樺太、ロシア、朝鮮・・・いや、もっと遠くまで。

    ・・・明治20年・・・
    日本から、はるか南、オーストラリアのタスマニア島。

    夏冬反対ですが、この島の気候は、日本と似ています。
    この島を訪れた日本人軽業師が、町で偶然見つけた、石碑の文字に驚きます。

    その石碑には
    「加州銭屋五兵衛領地」とひらがなで書かれていました。

    「まずい」と思った英国人は、石碑を撤去したそうです。
    銭屋の関係者がタスマニアに来た証拠、と言われています。

    晩年、五兵衛は、河北潟干拓事業に力をそそぎます。

    突然、悲劇が起こります。

    潟への投毒事件の嫌疑を受け、五兵衛は投獄され、全財産を没収されてしまいます。
    実は無実で、銭屋五兵衛の財産を狙う前田家の陰謀だったとの説が有力です。

    ◆◆「海の豪商」「海の百万石」と呼ばれた銭屋五兵衛。80歳で無念の獄死。◆◆
    ◆◆ 翌年の夏、ペリーが浦賀に来航します。◆◆

    (参考:喫茶掲示板の投稿)

    銭五 投稿者:ぴょん  投稿日: 2月17日(火)23時58分43秒

    はじめまして。いつも拝見させていただいています。
    実は、このページに初めてたどり着いたのは歴史の話の検索で引っ掛かったからで、株のホームページと知ったのはごく最近だったりします。
    そんなわけで、今回の銭屋の話も興味深く読ませていただいたのですが、事実誤認がいくらかありますので、投稿させていただきました。
    主に材木商を営んでいた銭五が木の産地に船を進め、海運業者として成長していったのは、その通りなのですが、支店の数はもとより、密貿易者銭五という像は、荒海をおそれず海外に雄飛する冒険心と封建権力の処罰を恐れず海外貿易によって国富を増進させようという勇気を持った先進者がいたという、近代の国粋主義下で作られた虚像なのです。
    三宅雪嶺など、岩崎弥太郎と安田善次郎と浅野総一郎の長所を合わせ持ったとか言ってます。でも、銭五の伝説の多くは確かめられないものが多いことは間違いありません。
    (ただ、本人が行った証拠にはならないものの、タスマニアの石碑は本当だそう)。
    この辺りは金沢の高校の先生木越隆三さんが『銭屋五兵衛と北前船の時代 』(北國新聞社、\1800)という本にまとめられています。木越さんは銭屋の古文書を読みとくだけでなく、取引先の青森の史料まで検討されていますので、少し難しいかも知れませんが読ませる本だと思います。
    でも、なぜ一地方の商人が近代の英雄になったのか考えるのも楽しいかも知れません。木越さんによれば、最後の銭屋の疑獄は、70を過ぎて藩営海運「御手船」の運営などを担当し藩政に深くかかわっていったことによる結果だとのことですが。。。

    いつの時代も企業経営者は政治に悩まされているのでしょうかねーー。
    株に関係ない話ですみません。

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    (2004/2/7)
    バレンタインデー物語(前編)

    AD268年、ローマ軍の将軍出身のクラウディウスは、ローマ帝国の皇帝の座につきます。当時のローマは、ゴート族の侵入に脅えていました。

    ローマの兵隊を蛮族より強くするには、どうしたらよいか?
    兵士が結婚すると、妻や子供のことが戦場で気になり、勇敢に戦えません。

    そうだ!よい考えがある。
    新皇帝は、結婚禁止令を発布して、ローマ兵の結婚を禁止します。

    彼は、ゴート族を破り、ついにゴティクス(ゴートの征服者)の称号を得ます。
    こうして、ローマ兵は、強くなったのです。

    しかし、ローマ帝国の恋人達は、結婚することが出来ません。
    どんなに深く愛し合っても・・・

    イタリア中部の町に、バレンタインというキリスト教の司祭がいました。
    当時のローマは、キリスト教を認めていませんでした。

    バレンタインは、愛し合うカップルに神の祝福を与え、密かに結婚式を挙行します。
    しかし、ついに皇帝にみつかり、バレンタインは投獄されます。

    バレンタインは、牢獄で看守の娘に恋をします。
    娘は、目が不自由でした。

    彼が祈ると、奇跡が起きます。
    娘の目が開き、世界が見えるようになったのです。

    皇帝はこの事件を聞き、バレンタインを恐れます。
    そして、聖バレンタインは、処刑されます。

    娘には、バレンタインが書いた「愛の手紙」が残されました。

    聖バレンタインが殉教した日は、2月14日。

    欧米では、愛の日として、手紙、カード、花を送る習慣が生まれます。
    男性から女性へ送っても、よいのです。

    ◆◆日本の習慣とかなり違いますね。◆◆
    ◆◆ この続きは、明日発表します。◆◆

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    (2004/2/8)
    バレンタインデー物語(後編)

    1917年ロシア革命が起こると、多くのロシア難民が海外に逃れました。フェードル・モロゾフもその一人。

    1922年、彼は、ロシア人が300人も住む神戸にたどり着きます。彼は、洋菓子店を開き、高級チョコレートを売り出します。参考1

    東証1部上場企業モロゾフの名前は、彼にちなんだものです。 1936年2月12日、英字新聞に、神戸モロゾフ製菓株式会社は、バレンタインデーの習慣を紹介し、チョコレートを贈り物にするように宣伝します。

    しかし、効果はほとんどなかったと思います。

    そして、戦後・・・1958年

    チョコレート業者が伊勢丹デパートで、バレンタイン・セールを開始します。この時も、ほとんど売れません。

    しかし、翌年(1959年)、ハート型チョコレートの新製品を登場します。

    「女性から、男性に愛の告白ができる日」は、この頃から日本人の心を捉えます。
    同年4月、に皇太子は、美智子様とご成婚されます。

    1980年「全国飴菓子工業協同組合」は、新プロジェクトを立案し実行します。参考2

    バレンタインデーから一ヶ月後の3月14日、チョコレートをもらった男性は、お返しが必要なはず。

    「ホワイトデーは、キャンデーを贈る日」というキャンペーンが、繰り広げられたのです。
    銀座の三越が、この企画を全面的にバックアップします。

    ちなみに、ホワイトデーは、本家欧米には存在しません。

    こうして、バレンタインデーは、国民的な行事に発展していきます。

    ◆◆もてない私は、昔から義理チョコさえ、ほとんどもらったことがありません。◆◆
    ◆◆ あまり、好きな日では、ありませんね。◆◆

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