■相場師列伝(第7巻)■

---目次---
  • アメリカが怯えた日のジェシー・リバモア(前編)
  • アメリカが怯えた日のジェシー・リバモア(後編)
  • 福沢桃介と日清戦争(前編)
  • 福沢桃介と日清戦争(後編)
  • 知恵袋ジム・ロジャーズ(前編)
  • 知恵袋ジム・ロジャーズ(後編)
  • この人の病床の一年間に、惹きつけられます

    (2001/12/20)
    アメリカが怯えた日の
    ジェシー・リバモア(前編)

    あまりよく知られていませんが、1907年の日露戦争の後のバブル崩壊は、空前絶後のものでした。この時、多くのドラマが生まれたことは、以前にご紹介しました。

    この年、アメリカでも、偉大な相場師が名をあげます。

    後に、世界大恐慌での空売りで、よく知られたジェシー・リバモアです。
    おそらく、彼にとって最も思い出深いのは、1929年(暗黒の木曜日)よりも1907年のほうだと私は信じています。

    1907年、彼は、まだ30歳でした。
    証券会社の黒板かきから身をおこし、ニ度の破産から立ち直り、100万ドルの投機資金を保有していました。

    若きジェシー・リバモアは、パリで休養中でした。 ヨットで、釣りを楽しみ、相場の緊張からくるストレスを癒していたのです。 しかし、ニューヨーク株の崩壊を伝える新聞が目に入ると、彼は、快速船で故国に戻ります。

    彼は、直ぐに主要株を売り始めます。巨額の売り玉が、建てられます。

    当時、証券会社は、客の信用取引の資金を銀行から短期的に借りていました。これをコールローンといいます。コールローンは、取引所のマネーポストで、毎日午前12時から、午後2時15分までの間に処理されます。

    株が下落するにつれて、不安を感じたコールローンの貸し手は、次第に減少していきます。 金利は上昇し、100%〜150%になります。サラ金なみの高金利です。

    そして、アメリカが怯えた1907年10月24日(木)の市場が開始します。
    この日の株価も、売り気配で始まります。

    そして、12時。いくら金利が高くても、コールローンの貸し手が、まったくいなくなります。
    ウォール街から、資金が忽然と消えてしまったのです。

    マネーポストでは、何百人もの人がパニックに陥ります。
    株を買う資金もなく、株を買う人も何処にもいません。

    ジェシー・リバモアは、この千載一隅のチャンスを逃しませんでした。
    全資産で、怒涛の空売りを仕掛けたのです。

    まったく抵抗なく、株価は暴落し続けます。
    株が下がると、彼の含みが増え、更なる空売りが可能になります。

    この事態は、アメリカの危機でもありました。
    このままでは、証券会社が資金確保のために、株を売るしかないのです。

    証券取引所の理事長は、金融界の巨人JPモルガンに助けを求めます。 JPモルガンは、機転を利かせます。 1000万ドルの貸し付けの申し込みを受け付け、明日、貸付を実施すると言って、証券会社を安心させたのです。

    しかし、あてがあるわけでは、なかったのです。

    ジェシー・リバモアは、勝利の美酒に酔いしれます。

    彼の含み益は、100万ドルを超えていました。
    たった一日で、資産が200万ドルに倍増したのです。

    ◆◆彼は、戦略を練ります。◆◆
    ◆◆ 「買い手には資金がない。」◆◆
    ◆◆「明日も全力で売れば、資産は倍増するに違いない。」◆◆

    ◆◆この続きは、明日発表します◆◆

    (参考文献)「世紀の相場師ジェシー・リバモア」 リチャード・スミッテン著 角川書店

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    (2001/12/21)
    アメリカが怯えた日の
    ジェシー・リバモア(後編)

    JPモルガンは有力銀行の頭取に次々と電話をかけます。
    「我々が、協力して資金を提供しないと、株式市場は崩壊する。準備金を吐き出すのだ!」
    銀行家達は、愛国心で団結します。これで1000万ドルの資金は確保されます。

    しかし、明日、株を買うものが果たしているかどうか?
    株が上がらないと、銀行は不良債権を抱え込みます。

    そして、JPモルガンがこの戦いに勝つには、どうしてもあの男の協力が必要でした。
    彼は、リバモアに使者を差し向けます。

    「あなたが、明日も株を売れば、株価は暴落して巨額の利益を得られるでしょう。
    しかし、リバモアさん、明日の売りを控えてもらえませんか。
    そうすれば、あなたは、アメリカの株式市場を救うという、より次元の高い名声を得られます。」

    ・・・・・・・1907年10月25日(金)の朝・・・・・・・・

    市場は、売り気配から始まります。

    ジェシー・リバモアは、売りを控えるどころか、猛然と買い戻しに入ります。 しかし、売り方の勢いも盛んで、株価は一進一退を繰り返します。リバモアの買戻しが終了。100万ドルの儲けが現金化されます。

    さて、リバモアは、この後どうするか?

    彼は、ユニオンパシフィックなどの主力株に各10万株の買いをいれます。
    あらゆる株を買い捲ったのです。

    これには、売り方も浮き足立ちます。踏み上げで買い戻すしかありません。相場は底を打ち、暴騰相場が始まります。 大きな流れが定まると、様子を見ていた個人投資家たちが、いっせいに買い始めます。いたるところ割安株だらけです。

    誰もが熱狂的に株を買っていた後場、
    リバモアは、今日買った株を密かに売り抜けていました。

    2日で、資産は3倍の300万ドルに膨張していました。しかも、含み益でなく、すべて現金です!

    銀行家達は、リバモアの愛国的な行為に感謝します。アメリカは、救われたのです。

    しかし、彼は、愛国心から買いにまわる男ではありませんでした。
    この日の朝、市場には、バネのような反発力がみなぎっていました。

    記録的な売り残を抱えた状態は、危険そのものです。
    彼は、銀行団が資金提供に合意したとの情報を得て、買いへの転向を決めたのです。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・

    人は、売りに強い彼のことをグレートベアと呼びました。

    しかし、リバモアは、投機の快楽に取り付かれた人間です。
    おそらく、投機中毒患者と言ったほうがよいでしょう。

    この300万ドルの現金も、綿花の買占めに失敗して失い、三度目の破産をします。
    そして、三度目の復活を経て、1929年の暗黒の木曜日に向けた空売りを行ない数百万ドルの利益をあげます。

    ◆◆普通だったら、後は、お遊び程度に賭けますが、◆◆
    ◆◆中毒患者は全財産を賭ける投機を止めることができません。◆◆

    ◆◆ 1940年、ジェシー・リバモアは、四度目の破産をきっかけにピストル自殺します。◆◆

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    (2002/5/9)
    福沢桃介と日清戦争(前編)

    このサイトが人気が出た最初の契機は、福沢桃介の話を書いて相場師列伝を連載し始めたことです。

    結核で倒れ入院して、約一年間。
    死に直面した病床の相場師・福沢桃介の頭は冴え渡り、
    千円の元手を100倍にして、10万円の資産を手に入れます。

    当時は、千円あれば、家が一軒建ちました。いくら桃介の才能が優れていて、清算取引でレバレッジを利かせたとしても、何故そんなに稼げたのか?

    長い間、不思議でした。最近、桃介の本を読み、謎が少し解けた気がします。
    それは、この戦争が関係しているのでしょう。

    ・・・・その戦争が起こる前、朝鮮半島・・・・・・・

    シベリアを制圧した帝政ロシアは、沿海州、満州に勢力を伸ばし、さらに南下を企てます。 500年続いた李王朝は、近代化に立ち遅れ、官僚腐敗で衰退しており、ロシアは、朝鮮を保護国にしたかったのです。

    また、清は朝鮮を属国とみなし、宗主権を主張していました。
    朝鮮の独立は、脅かされていたのです。

    我日本も、列強と直接国境を接しないために、朝鮮の独立を支持していました。 いわば、朝鮮半島は、日、露、清の三国が主導権を争う草刈場でした。

    1894年6月2日、東学党の乱が起こります。一揆軍は各地で、朝鮮政府軍を打ち破ります。
    朝鮮政府は、清に対して、内乱鎮圧の軍の派遣を要請します。

    驚いたのは、日本です。清の軍隊が朝鮮に入ったら、同国に対する日本の発言権は、永遠に失われます。

    6月12日、日本は、在朝日本人保護の名目で出兵します。

    7月25日、朝鮮政府は、日本軍の圧力に屈し、清国軍の追放を日本に要請します。日本軍は、これを受け、29日、清国軍を平城に敗走させます。

    そして、8月1日、日本は、清に対して宣戦布告し、両国の覇権を賭けた全面戦争となります。(日清戦争)

    ・・・・・桃介は、そのとき北海道炭鉱鉄道の社員でした・・・・・・

    桃介は、営業マンとして、名古屋市場を開拓して、北海道の石炭を船で運び販売していました。 戦争の機運が高まると、軍需物資を運ぶために船が次々と徴発されます。船がなければ、商売になりません。

    ここで、桃介は、粘り腰を発揮します。
    留学経験があり語学が堪能な桃介は、三隻のノルウェー汽船をチャーターすることに成功します。

    他の企業は、輸送手段がありません。会社は、莫大な利益を上げます。
    さらに、不眠不休で働き、英国船ガーデガンシャイァ号を手に入れます。

    今日は、晴れの舞台。この船の受け渡し式です。
    どうも船の上は気分が悪い。

    突然、桃介の目の前の景色が、真紅に染まります。
    桃介の喀血が原因でした。

    戦争が招いた過労が、死の病・結核を招いたのです。
    1894年8月10日、桃介は、妻の父・福沢諭吉の取り計らいで、細菌学の権威、北里柴三郎の病院(養生園)に入院します。

    夢敗れ、果てしなく続く退屈な毎日。

    意地をとおし、偉大な義父を見返すにはどうしたらいいのか?

    ◆◆そして、この戦争の行方は?◆◆
    ◆◆ 日本の近代兵器は、眠れる獅子・清を打ち砕くのではなかろうか?◆◆

    ◆◆ そうか!俺には、まだ株がある。◆◆
    ◆◆ 明日は、休みます。◆◆

    (参考文献)「鬼才福沢桃介の生涯」 浅利圭一郎著 NHK出版

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    (2002/5/11)
    福沢桃介と日清戦争(後編)

    福沢桃介は、株式相場を開始した時、3000円の貯金がありました。 この内の1000円を証券会社の保証金に入れ、電話による株取引を開始します。

    今の価値に換算すると2000万円ぐらいの金額でしょうか。
    これが、1年後に10万円(今の価値で、20億円)になります。

    つまり、手数料を引き算して、毎月平均46.8%の率で利益を出した計算です。
    レバレッジ3倍としても、毎月15.6%!一度でも大失敗(月33%の値下がり)したら、破産です。
    これは、通常の神経の投資家では、不可能だと思います。

    「結核で、死を覚悟していたこと」
    「日清戦争という千載一遇の大相場の材料」
    この二つの条件が揃わないと、こうした投機は心理的にできないでしょう。

    ともかく、福沢桃介は、1894年8月後半から、猛然と株を買い出しました。

    何を買ったかは、不明ですが、推理してみることにします。
    戦争勃発で、この時期の軍需関係銘柄は、もう手遅れでしょう。

    おそらく、朝鮮半島に利権を持ち、日本が敗れたら紙切れになるような企業の株を買ったのではないでしょうか。 朝鮮半島が戦場となり、これらの企業はかなり売り込まれていたはずです。

    ・・・・1894年9月・・・・・

    日本連合艦隊は、黄海海戦で清国の北洋艦隊に勝利し、黄海の制海権を握ります(9月17日)。 そして、陸では、圧倒的な火力で、清国軍を打ち破り、平城を占領します。

    眠れる獅子と恐れられた清は意外と脆く、新興国・日本勝利の可能性が強まります。

    ・・・・・・・・・・・・・・・

    戦局有利の情報が伝えられると、株式市場は暴騰します。特に、桃介の買った銘柄は、人気が殺到します。

    桃介は、莫大な含み益で生じた余力で、さらに目一杯買い玉を上乗せします。現金化しても使うこともできず、株しか楽しみは、ありません。
    朝から晩まで、株の研究に没頭します。

    ・・・・11月・・・・・・

    日本陸軍別働隊は、遼東半島に上陸、大連を制圧します。同半島の先端に位置する、難攻不落の天然の要塞、旅順に迫ります。 日本軍は、海と陸から攻めつづけ、11月21日旅順を陥落させます。

    北洋艦隊は、根拠地を奪われ、山東半島に逃げこみます。

    ・・・・・・・・・・

    桃介の病状は、回復に向かいます。
    1895年1月10日、退院します。

    桃介の資産は1万円(現在価値2億円)を超します。
    一生遊んでいける金額です。

    凡人なら、この辺で危ない橋は渡らないでしょう。
    しかし、相場の鬼と化した桃介は、追撃の手を緩めず、全財産を買いに賭けたのです。

    ・・・・・・1895年1月・・・・・・・・・・

    そして、清国北洋艦隊は、最後の拠点・山東半島の威海衛も失い、全滅します。
    このままでは、北京も危ない。

    2月13日、清国は、日本に降伏します。
    4月17日、下関条約が結ばれ、2億両の損害賠償、遼東半島、台湾の割譲、朝鮮の清国からの独立が達成されます。

    しかし、一週間後、ロシアは、三国干渉により、遼東半島を清に返還させます。

    ・・・・・・・・・・・・・・・

    日本中が、日清戦争の勝利に熱狂します。賠償金は取れるし、領土は広がり、大陸進出の基礎は完成します。 株価は、上昇を続けます。

    株をやりすぎたのか、桃介の病状は、再び悪化し、2月29日再入院。
    最終的に退院したのは、6月10日です。

    株を始めてから、約1年後、福沢桃介の資産は、10万円(現在価値20億円)に膨れ上がります。

    そして、あまり知られていない後日談があります。

    1897年11月、福沢諭吉は、一族を引き連れ、関西や広島厳島へ約10日間、旅行します。
    娘婿の桃介も同行します。義父には、相場に手を出していることは、秘密でした。

    この頃の桃介は、通訳などの仕事もしており、以前のような無茶な買い方はしていないと思います。

    ・・・しかし、10日後・・・

    旅行から帰ると、10万円の資産は半分の5万円に減っていました。

    ◆◆おそらく、戦争景気のバブルが、この時期に崩壊したのだと思います。◆◆
    ◆◆ なにしろ、この頃の株関係の資料がありません。◆◆
    ◆◆ 何か資料をご存知な方がいらしゃいましたら、掲示板で教えてください。◆◆

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    (2002/7/15)
    知恵袋ジム・ロジャーズ(前編)

    1942年、ジム・ロジャーズはアラバマ州で生まれました。彼が育ったのは、デモポリスという人口8000の小さな町です。

    彼は、イェール大学とオックスフォード大学(大学院)を卒業します。人間嫌いで、放浪癖があり、本を読んだり、物事を調査するのが大好きな性格でした。彼は、アルバイトで働いた、ドミニック&ドミニック証券会社の調査の仕事を、天職と確信します。

    頭を使い世の中の動きを調べれば、職場で賞賛が得られました。好きなことに朝から晩まで没頭して、給料がもらえるのです。

    いくつかの証券会社を渡り歩いた後、ロジャーズは、
    ある男と運命的な出会いをして、意気投合します。
    1969年その男とロジャーズは、独立して、あるファンドを設立させます。

    ロジャーズは27才、その男は39才の時でした。
    そのファンドの運用資金は、1200万ドルで、ヨーロッパの資金を集めて設立されました。

    ロジャーズが、投資すべき国やアメリカの業種を調査して、その男がトレーディングを担当しました。

    彼の活躍の例を、紹介しましょう。

    ロジャーズがアメリカの防衛産業を投資対象に選んだ契機は、1973年の第四次中東戦争でした。
    アメリカから輸入したイスラエルの戦闘機は、ソ連から導入されたアラブ側の電子装置のために苦戦します。

    アメリカ政府は、技術の立ち遅れに気づき、防衛エレクトロニクス予算を強化して、ソ連に追いつこうとします。

    このとき、ロッキードの株価は、わずか2ドルでした。

    ロジャーズとその男は、アメリカ政府の動きを事前に察知して、ロッキードなどの防衛産業を買い捲ります。 経営危機のロッキードは、見事に立ち直り、株価は60倍の120ドルに暴騰します。

    寝食を忘れた二人の共同作業で、そのファンドは、11年間で3,365%という驚異的な成績を収めます。

    株、商品相場、為替あらゆる市場で、レバレッジを利かせて暴れまくる。
    この種のファンドは、ヘッジファンドと呼ばれています。

    ファンドの名前は、皆さん察しがつくでしょう。

    ◆◆そのファンドの名は、クオンタム・ファンド。◆◆

    ◆◆ その男の名は、ジョージ・ソロス。◆◆
    ◆◆ 指に触れたものをすべて黄金に換える現代のミダス王です。◆◆

    ◆◆そして、ジム・ロジャーズは、ミダス王の知恵袋だったのです◆◆

    (参考文献)「マネーマスターズ列伝」ジョン・トレイン著  日本経済新聞社

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    (2002/7/16)
    知恵袋ジム・ロジャーズ(後編)

    ジム・ロジャーズの予測が正確に当たった例に、1973年の第一次石油ショックがあります。

    彼は、石油産業の中心地オクラホマ州タルサに行き、石油掘削会社を調査します。そして、アメリカの稼動している掘削装置の台数が減りつづけている事実に気がつきます。採算割れで、新規の油田開発が行なわれないのです。

    ガスや原油需要が、増え続けているのにも、かかわらず・・・

    特にクリーンで安い天然ガスは、消費者の間で人気がありました。

    彼は、パイプライン会社の社債発行目論見書から、「ガス供給量を保証する」という条項が、突然消えたのに注目します。 石油生産に付随して発生する天然ガスは、油田で無駄に燃やされているのに、天然ガスは不足していました。

    1971年、ロジャーズは、需要と供給を追うことにより、
    ガス(当時はコスト割れ価格で統制されていた)や原油の価格が、
    近い将来是正されることを確信します。

    彼は、経営不振を極めていた天然ガス掘削会社、石油掘削会社、オイルシェル会社の株を、安値で買い続けます。

    ・・・・1973年秋、OPECは原油価格を4倍に値上げします・・・・

    クオンタムファンドが買占めた石油関連株は、暴騰します。

    しかし、彼の考えは、次のとおりです。

    OPECの石油戦略の発動は、原油価格が上がるための単なる誘因にすぎない。
    需要と供給を考慮すると、原油価格が4倍に上がる条件は既に整っており、
    石油戦略が発動されなくとも、石油ショックを避けることは不可能だった。

    1980年、設立から11年、ソロスとロジャーズのファンドは、2億5000万ドルに成長します。 巨大化するファンドを円滑に運営するには、二人だけでは不可能で、新しい人材の導入が必要でした。

    しかし、ロジャーズは、ソロス以外の人間の意見を聞こうとしません。
    二人の溝は、もはや埋めることが出来ないほど深まっていました。

    ロジャーズは、1400万ドルの資金を受け取り、盟友ソロスと袂を分かちます。

    ロジャーズは、ファンドから完全に引退しますが、その後は個人投資家として大活躍するようになります。

    多くの国を訪れ、これはと思う国に、集中的に投資する方法で成功してきました。1984年のオーストリア、1985年のマレーシアとシンガポール、そして1986年はノルウェーの空売り。

    ◆◆投資活動に、のめり込む一方で、◆◆
    ◆◆彼は、コロンビア大学で、金融論を教えています。◆◆

    ◆◆ 若い人に教えるのが、楽しくてたまらないようです。◆◆
    ◆◆明日は、出張で休みます◆◆

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