■金解禁物語■

---目次---
  • ライオン宰相の金解禁(1)
  • 悪魔を信奉した蔵相(2)
  • デフレの恐怖(3)
  • ドル買い投機の嵐(4)
  • 血盟団事件(5)
  • 心情的には大好きな、小泉総理に捧げるつもりで書きました。

    (2001/7/5)
    ライオン宰相の金解禁(1)

    1927年の金融恐慌から2年後、ようやく日本経済が落ち着きを取り戻した頃のことです。

    ライオン宰相と呼ばれた浜口雄幸内閣は、「金本位制(金輸出解禁)への復帰」を最大の経済政策として登場します。

    1929年8月、政府は、金解禁と緊縮財政に対する国民の理解を得るために、1300万枚の宣伝ビラとラジオ放送を使い、国民に次のとおり呼びかけます。

    今日のままの不景気は、底の知れない不景気であります。
    前途暗澹たる不景気であります。

    これに反して、緊縮、節約、金解禁によるところの不景気は底をついた不景気であります。
    前途晧々たる光明を望んでの一時の不景気であります。

    ・・・・我々は、国民諸君とともにこの
    一時の苦痛をしのんで、
    後日の大なる発展を遂げなければなりません。

    金融恐慌で痛手を負った財界人や庶民の心に、この政策は輝いて見えました。

    この頃、「♪金の解禁立て直し、来るか時節が手を取って♪」という歌詞の金解禁節が流行ります。

    1929年10月24日、ニューヨーク株価の大暴落(暗黒の木曜日)がおこります。

    私達は、この暴落が重大事件であることを歴史で学びますが、当時のアメリカの実体経済は、まだ健全のように思えました。

    日本でも、アメリカでも楽観的な見通しが有力だったのです。

    浜口首相の下で、金解禁の指揮をとったのは、蔵相の井上準之助でした。 1929年11月21日、井上は決断します

    そして、1930年1月11日、金解禁が実施されたのです。

    この日の株価は、金解禁を歓迎して、高くなります。

    浜口首相は、自身満々、1月21日、衆議院を解散して、国民に信を問います。

    浜口内閣(民政党)は、圧倒的な支持を受け、273議席を獲得します。 反対派の政友会は、完膚なき敗北で、わずか174議席に落ち込みます。

    ◆◆私は、縁起は担がないほうなので、あまり書きたくないのですが・・・◆◆

    ◆◆ さて、私は、小泉メールマガジンを先月初めて受け取りました。◆◆
    ◆◆ そして、その中の書かれた小泉氏のHNを見て慄然としました。◆◆
    ★ ・・・・ライオンハート・・・・★

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    (2001/7/6)
    悪魔を信奉した蔵相(2)

    1869年、井上準之助は、大分県日田郡大鶴村で生まれました。仙台の二校から東大を卒業して、日銀に入ったエリートです。横浜正金銀行副頭取、日銀総裁を歴任しました。

    井上は、金本位制の持つ「自然の自動調整作用」を信じていました。

    輸入超過→金貨流出→通貨減少→金利上昇→国内物価下落→輸入減少
    輸出超過→金貨流入→通貨増加→金利低下→国内物価騰貴→輸出減少

    金本位制では、正貨の量に応じて、通貨の発行が制限されます。

    そして、自然の自動調整作用が充分働かない時は、井上の出身母体・日銀が公定歩合を決めることで、コントロールに関与する。

    それは、井上にとってインフレや為替リスクのない、
    グローバルスタンダードのユートピアのように思えたのです。

    金解禁には、正貨を充分積み増しする必要があり、緊縮予算が不可欠です。 井上は、蔵相に就任すると、1929年度の予算の実行段階で、緊縮財政を強引に推し進めます。

    歳入面では、シーリングを強化して、国債の新規発行を3924万円減額、一般会計の当初予算は、17億7356万円から9165万円も節約します。

    浜口内閣は、外交的には、日中の平和外交と軍備縮小を掲げていたのです。
    この内閣が、世論の支持を失わなければ、太平洋戦争は避けられたかもしれません。

    1929年7月の金解禁の前、為替は100円=43ドル50セントでした。 この頃、金解禁を必至とみた内外の銀行による為替投機が始まります。大量の円買い、ドル売りが始まっていたのです。 この影響で、正貨は順調に増えます。井上は、この事実を過小評価します。

    ところが、金解禁が実施されると、100円=49ドル85セントの固定制となり、円は14%以上切り上げられます。 大喜びの投機筋は、円売り、ドル買いの利食いを実施します。

    1930年1月〜6月の間、この影響で、2億3000万円の正貨が流失してしまいます。 エリート井上の見通しの甘さが、早くも露呈します。

    ◆◆しかし、この問題は、実は重要なものではなかったのです。◆◆

    ◆◆ 金本位制は、天使の仮面を脱ぎ捨て、本性をあらわします。◆◆
    ◆◆ 学者肌の井上準之助は、デフレという悪魔を信奉してしまったのです。◆◆

    ★(相似則)・・・竹中と井上・・・★
    ◆◆この続きは明日発表します。◆◆

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    (2001/7/7)
    デフレの恐怖(3)

    アメリカの株価暴落は、消費を低迷させて大不況が訪れます。絹の靴下を履くものなどいなくなります。

    生糸などの輸出産業は、円高の影響も受け、単価は暴落します。それでも買い手はどこにもいません。 日本の農村の経済を支えていた養蚕業も、致命的な打撃を受けます。

    生糸の単価指数は、1929年85.3でしたが、1930年には59.7まで落ち込みます。 米価指数は、1929年28.92から、1930年に18.36に暴落します。

    食べられない小作人が増加して、地主との間の小作争議は、1931年以降急増します。

    貧しい農家は、年頃の娘を、泣く泣く売るしか生きていけません。

    GNPは、1929年の13941百万円から1930年には11245百万円、1931年には10678百万円へと減少します。
    株価指数は、1929年の104.5から1930年には71.5、1931年は、53.0まで暴落します。

    企業倒産、リストラが相次ぎ、民営工場労働人員指数は、1929年の91.1から、1930年には82.2に、1931年には74.4に落ち込みます。
    賃金カットなどにより、実収賃金指数は、1929年の103.9から、1930年には98.7に1931年には90.7まで下がります。

    大学は出たけれど、職場は何処にもありません。

    いくら物価が下がっても輸出は、教科書どおりには増えません。世界恐慌の影響で、正価の流出は続いたのです。 通貨も減らさざるを得ず、デフレがますます加速します。

    そして、井上の緊縮予算が、不況対策の足かせとなってしまったのです。

    国民から大歓迎で迎えられた金解禁から、わずか10ヵ月後。
    恐慌を招いた浜口内閣に、非難は集中します。

    1930年11月14日、東京駅で浜口雄幸首相が狙撃されます。
    犯人は、右翼団体愛国者の構成員・佐郷屋留雄でした。
    浜口首相は、「男子の本懐だ!」と気丈に言い放ちますが、一命は取り止めます。

    しかし、執念の男・井上は、くじけません。

    ◆◆「ここを凌げば、前途晧々たる光明の未来が待っている」と信じたのです。◆◆
    ◆◆過酷な競争を勝ち抜いて、強力な輸出産業が育ち、◆◆
    ◆◆効率的な社会が実現すると考えたのです。◆◆

    ◆◆ そして、1931年井上の希望を完全に打ち砕く、◆◆
    ◆◆思いもかけない二つの大事件が勃発したのです。 ◆◆

    ★・・・小泉さんへ・・理念は大事ですが、足元の経済統計にも注意!・・★
    ◆◆この続きは、明日発表します。◆◆

    (参考文献)「昭和恐慌」 長 幸男著  岩波書店

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    (2001/7/8)
    ドル買い投機の嵐(4)

    1931年9月、金解禁を揺るがす二大事件が、ほぼ同時に勃発します。

    その事件とは、イギリスの金本位制離脱満州事変です。

    イギリスには、過大評価されたポンドを支える実力がなく、9月20日に離脱に踏み切ったのです。

    さて、投機筋は、次は日本の離脱が必至と読みます。
    離脱すれば、円レートは暴落して、莫大な差益を得ることができるのです。

    ニュースの翌日、内外の銀行、個人はドル買いのために正金銀行に殺到します。
    井上は、悲壮な決意で公定歩合を引き上げて、投機筋に売り向かい徹底的に対抗します。

    しかし、投機による急激な正貨流失は、金融を引き締め、
    物価を下落させ、恐慌をさらに深刻化させるのです。

    1930年7月31日から、1931年12月12日までのドル買いの内訳は次のとおりです。

    内ナショナル・シティ銀行2億7300万円
    住友銀行6400万円
    三井銀行5600万円
    三菱銀行5300万円
    香港上海銀行4000万円
    三井物産4000万円
    朝鮮銀行3400万円
    三井信託銀行1300万円
    その他1億8700万円
    合計7億6000万円

    ドル買いの主力は三井、住友などの財閥でした。10月頃からこの事実がマスコミに取り上げられ、国民の財閥に対する批判が盛り上がります。社民青年団の20人が、銀行に乱入してビラを撒く事件などが起こります。

    さて、一方の満州事変は、関東軍作戦参謀主任の石原莞爾(かんじ)
    高級参謀の板垣征四郎によって、1931年9月18日、独断で開始されます。

    満鉄線路の爆破を自ら行い、中国軍の仕業にして、満州侵略を開始したのです。

    まったく事前に相談を受けていない天皇と政府は、「不拡大方針」を発表します。

    石原参謀の電撃作戦は、戦術的には大成功を収めます。朝鮮軍の独断の参戦も功を奏して、わずか5ヶ月で満州全土の制圧に成功します。

    関東軍の兵士の出身母体は貧しい農村です。姉を売らざるを得ない農村の深刻な恐慌が、彼らの行動に影響したのは、間違いありません。

    戦争が始まると、もう緊縮予算どころでなくなります。公債を発行して戦費をまかないます。

    恐慌に沈み込んでいた国民は、優勢な戦局に熱狂します。
    石原らを処罰できる状況ではありません。

    ◆◆「独断で戦争を始めても、結果がよければ英雄になれる」◆◆
    ◆◆ 石原莞爾の行動は、日本ファシズムの奔流を生み出す導火線になるのです。◆◆

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    (2001/7/9)
    血盟団事件(5)

    浜口内閣の政策を引き継いだ第二次若槻内閣は、1931年12月11日、総辞職に追い込まれます。
    天皇から後継首相の下問を受けた元老の西園寺は、政友会の犬養毅を首相に指名し、政党内閣が、かろうじて存続します。

    13日、犬養内閣が成立した日、蔵相・高橋是清は、金輸出を再び禁止します。
    井上準之助は無念の涙を呑み、ドル買いの三井財閥は巨万の富を得ます。

    ・・・・・・・・・・・・・・

    元大陸浪人、日蓮宗僧侶の井上日召は、12人の青年の心をつかみ、一人一殺の方法で、元老、政党や財閥の巨頭を暗殺しようと、血盟団を組織します。

    井上日召のバックには、陸海軍の青年将校がいました。

    血盟団の一人、小沼のピストルは、霞ヶ浦航空隊の将校・井斎大尉が調達したものでした。

    1932年2月9日、東京本郷の駒本小学校で、小沼はピストルを抱えて、その男の到着を待ちます。

    日本の農村を恐慌に陥れ、多くの娘を身売りさせたり、一家心中に追い込んだりした、張本人が、総選挙の応援演説のため来るのです。

    自分の命と引き換えに、巨悪を倒すのです。
    その男は、高級自動車から、ゆっくりと降ります。

    パーン、パーン、パーン

    三発目の銃声と同時に、その男は倒れます。

    金解禁に執念を燃やした男、元蔵相、井上準之助の最後でした(血盟団事件)。

    そして、3月5日、今度は、ドル買いで巨万の富を築いた、三井合名の団琢磨理事長が、血盟団によって、暗殺されます。

    犯人は逮捕されても、関与した青年将校は、処罰されませんでした。

    ・・・・・・・・・・・・・・

    金輸出を再禁止した犬養首相は、中国への侵略には批判的でした。 そして、5月15日、犬養首相の自宅にも、青年将校達が乱入します。

    話せば、わかる」と犬養首相は、青年将校を説得しようとします。
    問答無用」と青年将校は、銃弾を発射します。

    最後の政党内閣は、こうしてテロにより倒されます(5・15事件)。

    青年将校を抑えることができるという理由で、海軍大将の斎藤実が、新しい首相になったのです。

    ◆◆こうして、軍国主義体制は構築され、不幸な戦争に突入していったのです。◆◆
    ◆◆ もし、浜口内閣が金解禁をせず、恐慌に対して適切な対策をとっていたら、◆◆
    ◆◆昭和の歴史は変っていたかもしれません。◆◆

    ★ぜひ、小泉さんにこの歴史を知って欲しい★

    本編は、いろはにをへとさんの投稿をヒントに書きました。

    ★さて、おまけの話。★

    浜口内閣の逓信相は、とび職から政界入りした、小泉又二郎という人です。
    彼は、「入れ墨大臣」として有名ですが、小泉純一郎首相の祖父にあたります。

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