■相場師列伝(第4巻)■

---目次---
  • 大神一と旭硝子仕手戦(前編)
  • 大神一と旭硝子仕手戦(中編)
  • 大神一と旭硝子仕手戦(後編)
  • 糸山英太郎vs近藤信男(前編)
  • 糸山英太郎vs近藤信男(後編)
  • 山崎種二の最大の危機(前編)
  • 山崎種二の最大の危機(後編)
  • ジョージ・ソロスvsイングランド銀行(前編)

  • (2001/9/3)
    大神一と旭硝子仕手戦(前編)

    大神一は、明治30年生まれ。東京帝国大学を卒業して、山一に入社します。 山一の先輩には、飛び将軍といわれた同窓の太田収がいました。

    戦後の山一證券が発展したのも、後に山一に対する日銀特融を招いたのも、大神一社長の影響が大きいと思います。 彼は、先輩・太田と異なり、公私混同して相場を張ることはしません。

    それでも、大神一といえば、大相場師というイメージが強烈なのは、
    あの有名な仕手戦を思い浮かべるからでしょう。

    それは、ドッジラインによるデフレが深刻化した、1950年ことです。

    当時、株式市場が再開されていましたが、戦前行われた清算取引は禁止されていました。
    信用で売り買いできない相場など、相場師にとっては気の抜けたビールみたいなものです。

    ところが、唯一の例外がヘタ株でした。

    ヘタ株とは、増資新株または権利株のことで、新株が発行されるまでの
    期間を利用して、少ない資金で売り買いできたのです。

    人気は、ヘタ株に集中します。
    さて、財閥解体の一貫として、三菱化成は、新光レーヨン、日本化成工業、旭硝子の三社に分割されます。

    旧株主に対して、三社のヘタ株が割り当てられ、1950年2月21日から売買が可能になります。

    旭ガラスの理論値は250円に過ぎないと思われていたのに、初値は420円にも達します。市場全体が不振を極める中での逆行高です。

    副社長の大神一率いる山一は、旭硝子のヘタ株を猛然と買い進みます。
    当時は、ドッジラインの安定恐慌が深刻で、ヘタ株についても、売り方の全盛です。
    この異常高値を、見過ごすはずはありません。

    売りは、山種、江口、野村、大和
    買いは、山一、日興、玉塚

    取り組みは、際限なく膨らんでいきます。
    いったい、どちらが勝つか?

    4月11日、均衡が破れ、売り方の力づくの総攻撃が始まります。

    防戦買いは、山一のみ。

    売り方勝利を確信した、全国の証券会社が雪崩をうって「成り行きのカラ売り」をぶつけます。
    前日の417円から67円も暴落して、終値は350円です。

    山一の完敗です。大勝利の売り方は、祝杯をあげます。

    ◆◆大神は、この知らせを出張先の四日市で聞きます。◆◆
    ◆◆ さあ、一大事。予定をキャンセルし、直ぐに東京に帰ります。◆◆
    ◆◆ あくる12日、語り草となった決戦の日が始まります。◆◆

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    (2001/9/4)
    大神一と旭硝子仕手戦(中編)

    1950年4月12日、旭硝子仕手戦の天下分け目の関が原

    買い方の総大将は、言わずとしれた山一證券の大神一、副将はギューちゃんのモデルとなった相場師・佐藤和三郎。昨日の敗北が禍して、味方は多くありません。

    売り方の総大将は、「売りのヤマタネ」こと山崎種二。多くの証券会社の自己売買部門、営業マン、顧客を糾合した連合軍で、士気は軒昂です。

    両者が対峙するなか、昨日とは雰囲気が、まったく異なっていました。
    大神一は、自ら取引所に乗り込み、陣頭指揮をとっていたのです。

    当時の山一は、野村を凌ぐトップ企業。その副社長が、自社の場立ちを叱咤激励します。
    「全部買うんだ!成り行きだ!」

    売り方が大神の気迫にひるんだ隙をつき、初戦は買い気配で始まります。

    売り方は、寄せ集めの烏合の衆。売り方に、不安がよぎります。
    「山一の副社長が出てくるのだから、途方もない材料があるのではないだろうか?」

    場電は、自社に報告します。
    「山一の副社長が、直接買いの手を振って、株価を吊り上げている。」
    これは、誤報でしたが、その場の雰囲気をよく伝えています。

    やがて、買い方に提灯がつき始めて、昨日からの形勢は完全に逆転します。
    この日の終値は、451円の101円高でした。

    あまりの過熱ぶりに東京証券業協会は、明日からの旭硝子の取引を、建て玉の整理売買に制限します。
    あくる13日、再び立会い場に現われた大神は、鬼神のごとく徹底して攻めあげます。

    売り方は敗走し、大踏み上げ相場が始まります。
    この日の終値は、531円のストップ高でした。

    大神率いる買い方の完全な勝利でした。
    このままでは、明日も売り手は誰もいないでしょう。

    ◆◆売り方は破産者が続出するしかありません。◆◆
    ◆◆ いったい、どう収拾をつければいいのか?◆◆
    ◆◆ この続きは、明日発表します。◆◆

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    (2001/9/5)
    大神一と旭硝子仕手戦(後編)

    旭硝子は、翌14日から三日間の売買停止となります。

    そして、解け合いになることが、決まります。
    売り玉も、買い玉も解け合い価格との差で、強制的に精算させられるのです。

    売り方は、池田蔵相やGHQまで動かして、解け合い価格を終値より17円も安い514円とするのに成功します。 しかし、この程度では、焼け石に水でした。

    多くの売り方が、行き詰まります。マル寿証券、東京自由証券は、このときの損失がもとで自主廃業します。

    東京証券業協会の理事は、責任をとり全員が辞職します。
    この事件を教訓に、権利株は、発行日以降でないと取引できなくなります。

    買い方の相場師・佐藤和三郎(合同証券)は、この勝負で1500万円儲けたと噂されました。
    ところが、事件の主役の山一証券は、あまり儲けていません。

    山一証券は、ある人物からの依頼で、大相場を張っていたようです。
    隠れた買い本尊は、いったい誰だったのでしょう?

    憶測は飛び交いますが、大神は、固く口をつぐみます。

    ・・・事件から約6ヶ月後のことです・・・

    大儲けした買い本尊から税金を取り立てようと、東京国税局査察部が動き出します。
    山一証券や大神も徹底的に取調べを受けます。

    そして、買い本尊の正体がついに明らかになります。
    6億7000万円の資金を投入して、解け合いで4000万円の利益を得た買い本尊は、

    旭硝子自身でした。

    つまり、「単なる自社株買い」というのが真相だったのです。

    旭硝子は、購入した特許権の対価として、ある外国企業に大量の自社株を渡す必要がありました。
    また、外国企業からの乗っ取りを防ぐため、浮動株を増やしたら危険だ、と考えていたのです。

    ◆◆あの日の燦然と輝いていた大相場師・大神は、◆◆
    ◆◆幻影だったのかもしれません。◆◆
    ◆◆ 明日は、仕事で休みます。◆◆

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    (2001/9/9)
    糸山英太郎vs近藤信男
    (前編)

    1973年に糸山英太郎の書いた「怪物商法」がベストセラーになります。
    私も、直ぐに買って、むさぼるように読みましたが、今は絶版のこの本を残念ながら紛失してしまいました。

    あいまいな記憶をネットでの調査で補強して、彼のことを書くと・・・・

    糸山英太郎は、1942年に生まれました。
    彼の父親は、ゴルフ場の経営者(新日本観光のオーナー)として名高い、大富豪の佐々木真太郎氏です。

    姓が異なっていることからも想像できますが、父と子は確執があり18歳の時に勘当されます。
    やがて、父と和解し、糸山は父の会社に入社します。
    キャディーからやらされたそうです。

    そして、結婚が彼に更なるパワーを与えます。

    彼の妻、桃子は、日本船舶振興会(現日本財団)を支配する笹川一族の娘です。 笹川一族は、競艇の収益金を各団体に配ることで強大な権力を握っています。

    さて、糸山が、株式市場で鮮烈なデビューを遂げたのは、1971年のニクソン・ショックの直後のことだったと思います。
    舞台となったのは、中山製鋼所・・・

    資本金10億円、発行株数2000万株の過小資本の会社です。
    若干29歳の糸山英太郎が、この株を買い始めたのです。

    株価は、どんどん暴騰して、同年8月末には1100円に達します。
    いくら含み資産が多いといっても高過ぎます。

    中山製鋼所の異常な高値をじっと観察していた、老獪な大相場師がいました。
    彼の名は近藤信男

    彼は、名古屋の近藤紡績所の社長ですが、戦前から今日まで、株、綿糸、小豆など、あらゆる相場に命を賭けて、勝ち残ってきた男です。

    ◆◆彼は、罫線を書き込みながら、◆◆
    ◆◆豊富な資金力で、中山製鋼所を売り崩すことを決意します。◆◆
    ◆◆ この続きは、明日発表します。◆◆

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    (2001/9/10)
    糸山英太郎vs近藤信男
    (後編)

    当時の糸山の資金量は30〜40億円程度です。
    資産2000億円といわれる近藤紡にとっては、敵ではありません。

    幕下力士が、横綱に挑むようなものです。
    たちまち売り崩され、糸山は窮地に立ちます。

    しかし、彼には華麗なる閨閥がついています。
    糸山は、実父・佐々木真太郎と笹川良一に泣きつきます。

    「俺の名前をかたって、株を買うな」と笹川良一は糸山に釘を刺さしながらも、救援資金を提供します。 さて、笹川一族と佐々木真太郎が本腰をいれて、中山製鋼所を買いだします。

    がっぷりよつに組んだ仕手戦が、繰り広げられます。

    もともと、過小資本の会社。双方の資金が続く場合、買い方が有利です。
    株価は、なんと3800円に達します。

    逆日歩がつきます。
    近藤は、膨大な金利を支払わなければなりません。

    出来高がほとんど枯れた状態で買い戻したら、株価は暴騰します。とても、買い戻すことができません。

    さすが、百戦錬磨の近藤信男。打開策を見つけます。
    人脈を駆使して、証券取引所を動かして、解け合いに持ち込みます。

    30億円の損害でした。

    この勝負は、近藤紡の最後の仕手戦でした。
    若造相手に有終の美を飾れず、さぞかし無念だったでしょう。

    この仕手戦がテーマとなった「怪物商法」がベストセラーになった年、近藤信男は癌で亡くなります。

    買い方も、勝負には勝ったものの、膨大な持ち株の処分に困り、あまり儲からなかったといわれています。

    仕手戦で糸山の名を売り、ベストセラーを書いたことには、別の目的があったのかもしれません。
    1974年7月 糸山英太郎は、参議院全国区に最年少で当選し、政治家への道を歩みだします。

    ◆◆糸山は、政治家は廃業しましたが、投資活動の方は相変わらずで、◆◆
    ◆◆最近では、日本航空の個人筆頭株主となり話題になりました。◆◆

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    (2001/9/14)
    山崎種二の最大の危機
    (前編)

    山崎種二さんの伝記を読んで驚かされるのは、経済の大きな流れや相場の転換点を的確につかんでいることです。

    1929年の暗黒の木曜日以降の株価の暴落は、現在と似ています。デフレスパイラルで、株価は何処までも下がると思っています。

    ところが、満州事変と高橋是清の政策転換で景気がよくなり、日本経済はアメリカよりも先に立ち直ります。 山崎種ニは、人より早くこの点に気づき、積極的な買いで一財産つくります。

    1935年には、大理石造りの本社ビルを兜町に建築します。

    同年暮れ、山崎種二は、相場の過熱を感じるようになります。
    「そろそろ、売るべきだ」

    新東、新鐘などのつなぎ売りから始まり、1936年の初めには一気に売り玉を拡大して、勝負に出ます。

    しかし、この判断は間違っていました。
    バブル相場は、狂ったように上昇を続けます。

    追証が発生して、山崎は窮地に立ちます。
    このままでは、すべてを失うかもしれません。

    どうせ裸一貫の米屋の小僧が築いた財産です。
    やり直せばよい。
    山崎は、自分に言い聞かせます。

    2月25日、ついに売り玉の買戻しを開始します。全面降伏です。
    残りも明日には、処分しなければなりません。

    そのとき、新潟から米相場関連のお得意さんの幸田慶三郎が、彼の家に泊まりに来ていました。 当時の電話は、即時通話ができません。電話をかけるのに予約が必要でした。

    山崎は、幸田が明日、新潟市場で株を買えるように
    新潟の株屋に電話をかける予約」をします。

    さて、翌朝、2月26日の東京は、朝から雪が降っていました。
    日本の歴史と山崎の運命を変えた、大事件がこの日勃発します。

    ◆◆「大変だ! 大変だ! ラジオをつけてくれ!」◆◆
    ◆◆ この続きは、明日の夜、発表します。◆◆

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    (2001/9/15)
    山崎種二の最大の危機
    (後編)

    1936年2月26日朝、皇道派青年将校に率いられた1400名の兵が決起して、
    首相、陸相の官邸、内大臣の私邸、警視庁などを襲撃します(2・26事件)。

    斎藤実内大臣、高橋是清蔵相、渡辺錠太郎陸軍教育総監らが暗殺されます。

    ・・・・・・・・・・・・・・

    事件のために、兜町の取引が中止になるのが確実と予測されました。
    しかし、事件を知らない新潟の取引所は、東京よりも10分早く始まったのです。

    さて、新潟市場が始まる少し前・・・
    リーン、リーン、リーン
    新潟への予約の電話のベルが鳴り響きます。

    この電話が、奇跡の逆転を生み出したのです。
    山崎種ニは、この電話で、昨日の買戻し分をすべて売り直します。

    そのうえ、乾坤一擲の大勝負に出ます。
    新たな巨額の売り玉を、上乗せしたのです。負けたら、破産です。

    そして、東京の取引中止が新潟に伝わると、新潟市場の立会いも途中で中止となります。
    しかし、間一髪、山崎の膨大な売り注文について、取引が成立してしまいます。

    ・・・・・・・・・・・・・・

    昭和天皇は、「朕の重臣を殺戮した者は、逆賊である。反乱軍を鎮圧せよ。」と命令します。

    27日、戒厳令がしかれます。

    翌日、反乱軍に対して、ビラが撒かれます。

    今からでも遅くないから、原隊へ帰れ。
      抵抗する者は、全部逆賊であるから射殺する。
      お前達の父母兄弟は、国賊となるので皆泣いておるぞ。

    反乱軍から投降者が続出して、クーデターは失敗に終ります。
    香田清貞ほか17名が死刑となりました。

    ・・・・・・・・・・・・・・

    取引所が、ようやく再開されたのは、13日後の3月10日です。
    この日は、成り行きの売りばかりで、気配値で、株価はどんどん下がります。

    全銘柄、目を覆うばかりの暴落です。何処にも買い手がいません。

    山崎は、充分下がったと見ると、買戻しを入れ始めます。
    そして、売り玉をすべて買い戻すと、今度は、一転して買い玉を建て始めます。
    買って買って、買い捲ったのです。

    恐怖で下げた相場は行き過ぎて、必ず反動があります。
    そして、最初はゆっくりと、次第に加速をつけて、株価はリバウンドします。 皆の気持ちが明るくなった頃、山崎は、すべての買い玉を利食い手仕舞いします。

    ◆◆絶妙のタイミングでした。◆◆
    ◆◆ 山崎種ニの会心の逆転大勝利でした。◆◆

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    (2001/9/20)
    ジョージ・ソロスvsイングランド銀行
    (前編)

    ジョージ・ソロスの右腕に、ドラッケンミラーという男がいます。 彼は、ベルリンの壁崩壊後、マルクの高騰にかけたり、日本株の空売りをして莫大な利益を上げ頭角を現します。

    1992年初秋、ドラッケンミラーは、ポンドに注目します。

    当時の英国は、ERM(欧州為替相場メカニズム)に参加しており、ポンドは、マルクに対して一定の幅でリンクされていました。 当時のドイツは、東ドイツとの統一のため、巨額の予算が必要であり、インフレ懸念から高金利政策をとっていました。

    国内事情を優先するあまり、弱い通貨を持つ英国やイタリアのために、協調利下げをする余裕はないはずです。 一方の英国は不況で苦しんでおり、高金利を維持するのは無理です。

    ドラッケンミラーは、巨額資金を投入し、ポンドを空売りする許可をソロスに求めます。

    「儲ける時は、徹底的に儲けないとだめだ!投資金額を二倍に増やすべきだ。」
    二人の意見は、「ポンドは、切り下げに追い込まれる」という点でピッタリ一致していました。

    空前の為替投機は、1992年9月10日(木)から始まります。 ソロスは、100億ドルのポンドを空売りして、60億ドルのマルクを買います。

    そして、ポンド切り下げ後、上昇が見込まれる英国株を5億ドル買います。 さらに、マルク上昇後、金利の低下から値上がりが見込まれるドイツの債券を購入し、ドイツ株を空売りしたのです。

    ジョージソロスを筆頭とした為替投機家とイングランド銀行との、壮絶な戦いの火蓋が切られたのです。 ポンドの売り浴びせに対して、イングランド銀行は、持てる外貨準備高を取り崩して、ポンドの買支えを必死に行います。

    「ヘッジファンドなどに英国政府が負けてたまるか」
    ラモント蔵相は、投機筋を撃退する秘策を練ります。

    明日は、この対策でヘッジファンドを潰す計画なのです。

    そして、ポンド危機のクライマックス、1992年9月16日のブラック・ウェンズデーの朝を迎えます。

    ソロスは、勝利を確信していました。
    ドラッケンミラーにすべてを託し、勝負が決着する前に、心地よい眠りにつきます。

    ◆◆ソロスは、子供のとき、「自分は、神だ」と感じたそうです。◆◆
    ◆◆ 明日は、仕事で休みます。後編へ◆◆

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