■相場師列伝(第9巻)■

---目次---
  • 昭和の天一坊・伊東ハンニ(前編)
  • 昭和の天一坊・伊東ハンニ(中編)
  • 昭和の天一坊・伊東ハンニ(後編)
  • 相場師のマネをして全財産を賭けるのは、やめましょうね。

    (2005/6/18)
    昭和の天一坊・伊東ハンニ(前編)

    その青年は、スケールの大きな天才詐欺師でした。
    第一次世界大戦が終わり、まだ景気のよかった時代。

    その青年は、自分が皇族の落とし子だいう噂を流します。
    将軍の子を騙った天一坊のように・・・

    そして、有名人を発起人にして、新会社を設立します。
    人気が殺到。たちまち資金が集まります。

    ところが、数万円を持ち逃げし、姿をくらまします。

    それから、10年以上の月日が過ぎ去りました。

    ・・・時効成立・・・

    その頃の日本は、不景気のどん底でした。
    農村では娘が売られ、都市では失業者が溢れていました。
    大学を出ても、就職先はありません。

    1931年9月18日、関東軍は、参謀・石原莞爾の構想に従い、満鉄線路をみずから爆破し、これを中国軍のしわざとして満州侵略が始ります。

    ・・・満州事変が起こった翌日・・・
    好機到来。

    その男は、再び檜舞台に登場します。
    30才台の類まれなる愛国者として

    彼は、陸軍省を訪ね、5万円もの大金を寄付したのです。
    「日本のために、役立ててほしい」

    彼は、満州の実力者・板垣征四郎の信頼を得ます。

    ◆◆その男の名は、伊東ハンニ。◆◆
    ◆◆ 禊(みそぎ)も終わり、ようやく、正々堂々と相場が張れるのです。◆◆

    (参考文献)百戦百勝―働き一両・考え五両 城山三郎著 角川文庫

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    (2005/6/19)
    昭和の天一坊・伊東ハンニ(中編)

    伊東ハンニは、新東株を90円のときに買いはじめます。
    12月14日には、160円カイから始まり、200円を突破します。

    ついに、清算できずに総とけあいに。
    この勝負で、彼は巨額の利益を手にします。

    帝国ホテルに住み、彼は、赤字続きの国民新聞を買収します。 全国各地で講演会を実施し、ファシズムでも共産主義でもない新国民主義を日本が進むべき道として説きました。

    彼には人気があり、講演会は大盛況でした。
    しかし、彼は言葉巧みに、知り合った金持ちから密かに資金を集めていました。

    彼は、占星術で相場の動きは読めると主張します。 新東株は、彼の予言どおり上がっています。

    彼の天才ぶりは、出資者に1割の金を直に返したことです。 当時の判例によれば、1割を返済すれば、返済する意思があり詐欺でないことを立証できるそうです。

    1932年、東京蛎殻町。
    何者かが、米を猛然と買い漁り始めます。

    正体不明の買い本尊は、黒頭巾と呼ばれました。
    そして、この黒頭巾の正体は、伊東ハンニであることが次第に明らかになります。

    米価の異常な高騰に注目したのが、相場師・山崎種二です。
    山崎は、全国各地の米の作柄情報や在庫に精通していました。

    まだ、春。今年の収穫量が確定しないのに、馬鹿高値で買うのは不自然です。 回米問屋を経営している山崎は、経験から米相場を知り抜いていました。 腕力で強引に米価を上げても、米は自然と湧き出てくるもの・・・

    山崎は、全国各地の現物米を集め鞘取りしながら、得意の「ソロバン売り」で伊東ハンニに勝負を挑みました。

    しかし、伊東ハンニには、秘策がありました。
    その大ニュースは、ある日蛎殻町を駆け巡ります。

    ハンニは、板垣征四郎の後見を得て、買った米を満州に送り、売却するつもりだ。
    つまり、ハンニの買いは、実需買いかもしれません。

    ◆◆山崎の予想に反し、米価はさらに暴騰します。◆◆
    ◆◆ さて、追いつめられた山崎は、どうしたか?◆◆

    (参考)昭和の天一坊 伊東ハンニ伝 川西善治著 論創社

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    (2005/6/20)
    昭和の天一坊・伊東ハンニ(後編)

    「いくら関東軍でも、国内の需給バランスを崩すことはできない」
    「たとえ満州に米を送るとしても、たいした量ではないはずだ」
    「ハンニには信用がない。資金繰りが破綻するだろう」

    多くの買い方が脱落する中、山崎種二は、さらに本腰をいれて、大量に売り浴びせました。

    売りの山種vs買いのハンニ。

    両者は一歩も譲りません。

    ・・・1932年5月15日(水)午後5時半・・・

    血気にはやる青年将校達が首相官邸に乱入します。

    首相 「話せば、判る」
    青年将校 「問答無用」

    「ダーン」
    青年将校の放った銃弾は、犬養毅首相の右こめかみを貫きます。(五・一五事件)。

    ・・・さて、翌16日(木)・・・
    五・一五事件に伴う政局の混迷を嫌い、株価は大暴落。

    ハンニが大量に保有する新東株も買い手がつきません。

    新東株、ウリ気配。
    このニュースが、蛎殻町に伝わると、米相場の戦局も一気に傾きます。

    買い方、全面敗走。
    山崎は、容赦なく、さらに売り叩きます。

    ハンニの手形は、いたるところで割引きを拒否されます。
    「米に手を出したのは、失敗だった。米相場で投げた玉は、数百万円に達した」とハンニは述懐しています。

    10月を最後に、資金不足から国民新聞の発行ができなくなります。金の切れ目が縁の切れ目。彼を取り巻いていた文化人や軍人も去っていきます。

    ◆◆翌年、ハンニは、逃げるように大陸へ旅立ちます。◆◆

    ◆◆ 一方、山崎種二の米相場師としての名声は◆◆
    ◆◆この勝利で不動のものとなったのです。◆◆

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