■相場師列伝(第4巻)■
大神一と旭硝子仕手戦(前編) |
大神一は、明治30年生まれ。東京帝国大学を卒業して、山一に入社します。 山一の先輩には、飛び将軍といわれた同窓の太田収がいました。
戦後の山一證券が発展したのも、後に山一に対する日銀特融を招いたのも、大神一社長の影響が大きいと思います。 彼は、先輩・太田と異なり、公私混同して相場を張ることはしません。
それでも、大神一といえば、大相場師というイメージが強烈なのは、
あの有名な仕手戦を思い浮かべるからでしょう。
それは、ドッジラインによるデフレが深刻化した、1950年ことです。
当時、株式市場が再開されていましたが、戦前行われた清算取引は禁止されていました。
信用で売り買いできない相場など、相場師にとっては気の抜けたビールみたいなものです。
ところが、唯一の例外がヘタ株でした。
ヘタ株とは、増資新株または権利株のことで、新株が発行されるまでの 期間を利用して、少ない資金で売り買いできたのです。 |
人気は、ヘタ株に集中します。
さて、財閥解体の一貫として、三菱化成は、新光レーヨン、日本化成工業、旭硝子の三社に分割されます。
旧株主に対して、三社のヘタ株が割り当てられ、1950年2月21日から売買が可能になります。
旭ガラスの理論値は250円に過ぎないと思われていたのに、初値は420円にも達します。市場全体が不振を極める中での逆行高です。
副社長の大神一率いる山一は、旭硝子のヘタ株を猛然と買い進みます。
当時は、ドッジラインの安定恐慌が深刻で、ヘタ株についても、売り方の全盛です。
この異常高値を、見過ごすはずはありません。
取り組みは、際限なく膨らんでいきます。
いったい、どちらが勝つか?
4月11日、均衡が破れ、売り方の力づくの総攻撃が始まります。
防戦買いは、山一のみ。
売り方勝利を確信した、全国の証券会社が雪崩をうって「成り行きのカラ売り」をぶつけます。
前日の417円から67円も暴落して、終値は350円です。
山一の完敗です。大勝利の売り方は、祝杯をあげます。
◆◆大神は、この知らせを出張先の四日市で聞きます。◆◆
◆◆
さあ、一大事。予定をキャンセルし、直ぐに東京に帰ります。◆◆
◆◆
あくる12日、語り草となった決戦の日が始まります。◆◆
大神一と旭硝子仕手戦(中編) |
1950年4月12日、旭硝子仕手戦の天下分け目の関が原
買い方の総大将は、言わずとしれた山一證券の大神一、副将はギューちゃんのモデルとなった相場師・佐藤和三郎。昨日の敗北が禍して、味方は多くありません。
売り方の総大将は、「売りのヤマタネ」こと山崎種二。多くの証券会社の自己売買部門、営業マン、顧客を糾合した連合軍で、士気は軒昂です。
両者が対峙するなか、昨日とは雰囲気が、まったく異なっていました。 大神一は、自ら取引所に乗り込み、陣頭指揮をとっていたのです。 |
当時の山一は、野村を凌ぐトップ企業。その副社長が、自社の場立ちを叱咤激励します。
「全部買うんだ!成り行きだ!」
売り方が大神の気迫にひるんだ隙をつき、初戦は買い気配で始まります。
売り方は、寄せ集めの烏合の衆。売り方に、不安がよぎります。
「山一の副社長が出てくるのだから、途方もない材料があるのではないだろうか?」
場電は、自社に報告します。
「山一の副社長が、直接買いの手を振って、株価を吊り上げている。」
これは、誤報でしたが、その場の雰囲気をよく伝えています。
やがて、買い方に提灯がつき始めて、昨日からの形勢は完全に逆転します。
この日の終値は、451円の101円高でした。
あまりの過熱ぶりに東京証券業協会は、明日からの旭硝子の取引を、建て玉の整理売買に制限します。
あくる13日、再び立会い場に現われた大神は、鬼神のごとく徹底して攻めあげます。
売り方は敗走し、大踏み上げ相場が始まります。
この日の終値は、531円のストップ高でした。
大神率いる買い方の完全な勝利でした。
このままでは、明日も売り手は誰もいないでしょう。
◆◆売り方は破産者が続出するしかありません。◆◆
◆◆
いったい、どう収拾をつければいいのか?◆◆
◆◆
この続きは、明日発表します。◆◆
大神一と旭硝子仕手戦(後編) |
旭硝子は、翌14日から三日間の売買停止となります。
そして、解け合いになることが、決まります。 売り玉も、買い玉も解け合い価格との差で、強制的に精算させられるのです。 |
売り方は、池田蔵相やGHQまで動かして、解け合い価格を終値より17円も安い514円とするのに成功します。 しかし、この程度では、焼け石に水でした。
多くの売り方が、行き詰まります。マル寿証券、東京自由証券は、このときの損失がもとで自主廃業します。
東京証券業協会の理事は、責任をとり全員が辞職します。
この事件を教訓に、権利株は、発行日以降でないと取引できなくなります。
買い方の相場師・佐藤和三郎(合同証券)は、この勝負で1500万円儲けたと噂されました。
ところが、事件の主役の山一証券は、あまり儲けていません。
山一証券は、ある人物からの依頼で、大相場を張っていたようです。
隠れた買い本尊は、いったい誰だったのでしょう?
憶測は飛び交いますが、大神は、固く口をつぐみます。
・・・事件から約6ヶ月後のことです・・・
大儲けした買い本尊から税金を取り立てようと、東京国税局査察部が動き出します。
山一証券や大神も徹底的に取調べを受けます。
そして、買い本尊の正体がついに明らかになります。
6億7000万円の資金を投入して、解け合いで4000万円の利益を得た買い本尊は、
旭硝子自身でした。
つまり、「単なる自社株買い」というのが真相だったのです。
旭硝子は、購入した特許権の対価として、ある外国企業に大量の自社株を渡す必要がありました。
また、外国企業からの乗っ取りを防ぐため、浮動株を増やしたら危険だ、と考えていたのです。
◆◆あの日の燦然と輝いていた大相場師・大神は、◆◆
◆◆幻影だったのかもしれません。◆◆
◆◆
明日は、仕事で休みます。◆◆
糸山英太郎vs近藤信男 (前編) |
1973年に糸山英太郎の書いた「怪物商法」がベストセラーになります。
私も、直ぐに買って、むさぼるように読みましたが、今は絶版のこの本を残念ながら紛失してしまいました。
あいまいな記憶をネットでの調査で補強して、彼のことを書くと・・・・
糸山英太郎は、1942年に生まれました。
彼の父親は、ゴルフ場の経営者(新日本観光のオーナー)として名高い、大富豪の佐々木真太郎氏です。
姓が異なっていることからも想像できますが、父と子は確執があり18歳の時に勘当されます。
やがて、父と和解し、糸山は父の会社に入社します。
キャディーからやらされたそうです。
そして、結婚が彼に更なるパワーを与えます。
彼の妻、桃子は、日本船舶振興会(現日本財団)を支配する笹川一族の娘です。 笹川一族は、競艇の収益金を各団体に配ることで強大な権力を握っています。
さて、糸山が、株式市場で鮮烈なデビューを遂げたのは、1971年のニクソン・ショックの直後のことだったと思います。
舞台となったのは、中山製鋼所・・・
資本金10億円、発行株数2000万株の過小資本の会社です。
若干29歳の糸山英太郎が、この株を買い始めたのです。
株価は、どんどん暴騰して、同年8月末には1100円に達します。
いくら含み資産が多いといっても高過ぎます。
中山製鋼所の異常な高値をじっと観察していた、老獪な大相場師がいました。 彼の名は近藤信男。 |
彼は、名古屋の近藤紡績所の社長ですが、戦前から今日まで、株、綿糸、小豆など、あらゆる相場に命を賭けて、勝ち残ってきた男です。
◆◆彼は、罫線を書き込みながら、◆◆
◆◆豊富な資金力で、中山製鋼所を売り崩すことを決意します。◆◆
◆◆
この続きは、明日発表します。◆◆
糸山英太郎vs近藤信男 (後編) |
当時の糸山の資金量は30〜40億円程度です。
資産2000億円といわれる近藤紡にとっては、敵ではありません。
幕下力士が、横綱に挑むようなものです。
たちまち売り崩され、糸山は窮地に立ちます。
しかし、彼には華麗なる閨閥がついています。
糸山は、実父・佐々木真太郎と笹川良一に泣きつきます。
「俺の名前をかたって、株を買うな」と笹川良一は糸山に釘を刺さしながらも、救援資金を提供します。 さて、笹川一族と佐々木真太郎が本腰をいれて、中山製鋼所を買いだします。
がっぷりよつに組んだ仕手戦が、繰り広げられます。
もともと、過小資本の会社。双方の資金が続く場合、買い方が有利です。
株価は、なんと3800円に達します。
逆日歩がつきます。
近藤は、膨大な金利を支払わなければなりません。
出来高がほとんど枯れた状態で買い戻したら、株価は暴騰します。とても、買い戻すことができません。
さすが、百戦錬磨の近藤信男。打開策を見つけます。
人脈を駆使して、証券取引所を動かして、解け合いに持ち込みます。
30億円の損害でした。
この勝負は、近藤紡の最後の仕手戦でした。 若造相手に有終の美を飾れず、さぞかし無念だったでしょう。 |
この仕手戦がテーマとなった「怪物商法」がベストセラーになった年、近藤信男は癌で亡くなります。
買い方も、勝負には勝ったものの、膨大な持ち株の処分に困り、あまり儲からなかったといわれています。
仕手戦で糸山の名を売り、ベストセラーを書いたことには、別の目的があったのかもしれません。 1974年7月 糸山英太郎は、参議院全国区に最年少で当選し、政治家への道を歩みだします。 |
◆◆糸山は、政治家は廃業しましたが、投資活動の方は相変わらずで、◆◆
◆◆最近では、日本航空の個人筆頭株主となり話題になりました。◆◆
山崎種二の最大の危機 (前編) |
山崎種二さんの伝記を読んで驚かされるのは、経済の大きな流れや相場の転換点を的確につかんでいることです。
1929年の暗黒の木曜日以降の株価の暴落は、現在と似ています。デフレスパイラルで、株価は何処までも下がると思っています。
ところが、満州事変と高橋是清の政策転換で景気がよくなり、日本経済はアメリカよりも先に立ち直ります。 山崎種ニは、人より早くこの点に気づき、積極的な買いで一財産つくります。
1935年には、大理石造りの本社ビルを兜町に建築します。
同年暮れ、山崎種二は、相場の過熱を感じるようになります。
「そろそろ、売るべきだ」
新東、新鐘などのつなぎ売りから始まり、1936年の初めには一気に売り玉を拡大して、勝負に出ます。
しかし、この判断は間違っていました。
バブル相場は、狂ったように上昇を続けます。
追証が発生して、山崎は窮地に立ちます。
このままでは、すべてを失うかもしれません。
どうせ裸一貫の米屋の小僧が築いた財産です。
やり直せばよい。
山崎は、自分に言い聞かせます。
2月25日、ついに売り玉の買戻しを開始します。全面降伏です。
残りも明日には、処分しなければなりません。
そのとき、新潟から米相場関連のお得意さんの幸田慶三郎が、彼の家に泊まりに来ていました。 当時の電話は、即時通話ができません。電話をかけるのに予約が必要でした。
山崎は、幸田が明日、新潟市場で株を買えるように
「新潟の株屋に電話をかける予約」をします。
さて、翌朝、2月26日の東京は、朝から雪が降っていました。 日本の歴史と山崎の運命を変えた、大事件がこの日勃発します。 |
◆◆「大変だ! 大変だ! ラジオをつけてくれ!」◆◆
◆◆
この続きは、明日の夜、発表します。◆◆
山崎種二の最大の危機 (後編) |
1936年2月26日朝、皇道派青年将校に率いられた1400名の兵が決起して、 首相、陸相の官邸、内大臣の私邸、警視庁などを襲撃します(2・26事件)。 |
斎藤実内大臣、高橋是清蔵相、渡辺錠太郎陸軍教育総監らが暗殺されます。
・・・・・・・・・・・・・・
事件のために、兜町の取引が中止になるのが確実と予測されました。
しかし、事件を知らない新潟の取引所は、東京よりも10分早く始まったのです。
さて、新潟市場が始まる少し前・・・
リーン、リーン、リーン
新潟への予約の電話のベルが鳴り響きます。
この電話が、奇跡の逆転を生み出したのです。
山崎種ニは、この電話で、昨日の買戻し分をすべて売り直します。
そのうえ、乾坤一擲の大勝負に出ます。 新たな巨額の売り玉を、上乗せしたのです。負けたら、破産です。 |
そして、東京の取引中止が新潟に伝わると、新潟市場の立会いも途中で中止となります。
しかし、間一髪、山崎の膨大な売り注文について、取引が成立してしまいます。
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昭和天皇は、「朕の重臣を殺戮した者は、逆賊である。反乱軍を鎮圧せよ。」と命令します。
27日、戒厳令がしかれます。翌日、反乱軍に対して、ビラが撒かれます。
今からでも遅くないから、原隊へ帰れ。
抵抗する者は、全部逆賊であるから射殺する。
お前達の父母兄弟は、国賊となるので皆泣いておるぞ。
反乱軍から投降者が続出して、クーデターは失敗に終ります。
香田清貞ほか17名が死刑となりました。
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取引所が、ようやく再開されたのは、13日後の3月10日です。
この日は、成り行きの売りばかりで、気配値で、株価はどんどん下がります。
全銘柄、目を覆うばかりの暴落です。何処にも買い手がいません。
山崎は、充分下がったと見ると、買戻しを入れ始めます。
そして、売り玉をすべて買い戻すと、今度は、一転して買い玉を建て始めます。
買って買って、買い捲ったのです。
恐怖で下げた相場は行き過ぎて、必ず反動があります。
そして、最初はゆっくりと、次第に加速をつけて、株価はリバウンドします。
皆の気持ちが明るくなった頃、山崎は、すべての買い玉を利食い手仕舞いします。
◆◆絶妙のタイミングでした。◆◆
◆◆
山崎種ニの会心の逆転大勝利でした。◆◆
ジョージ・ソロスvsイングランド銀行 (前編) |
ジョージ・ソロスの右腕に、ドラッケンミラーという男がいます。 彼は、ベルリンの壁崩壊後、マルクの高騰にかけたり、日本株の空売りをして莫大な利益を上げ頭角を現します。
1992年初秋、ドラッケンミラーは、ポンドに注目します。
当時の英国は、ERM(欧州為替相場メカニズム)に参加しており、ポンドは、マルクに対して一定の幅でリンクされていました。 当時のドイツは、東ドイツとの統一のため、巨額の予算が必要であり、インフレ懸念から高金利政策をとっていました。
国内事情を優先するあまり、弱い通貨を持つ英国やイタリアのために、協調利下げをする余裕はないはずです。 一方の英国は不況で苦しんでおり、高金利を維持するのは無理です。
ドラッケンミラーは、巨額資金を投入し、ポンドを空売りする許可をソロスに求めます。
「儲ける時は、徹底的に儲けないとだめだ!投資金額を二倍に増やすべきだ。」 二人の意見は、「ポンドは、切り下げに追い込まれる」という点でピッタリ一致していました。 |
空前の為替投機は、1992年9月10日(木)から始まります。 ソロスは、100億ドルのポンドを空売りして、60億ドルのマルクを買います。
そして、ポンド切り下げ後、上昇が見込まれる英国株を5億ドル買います。 さらに、マルク上昇後、金利の低下から値上がりが見込まれるドイツの債券を購入し、ドイツ株を空売りしたのです。
ジョージソロスを筆頭とした為替投機家とイングランド銀行との、壮絶な戦いの火蓋が切られたのです。 ポンドの売り浴びせに対して、イングランド銀行は、持てる外貨準備高を取り崩して、ポンドの買支えを必死に行います。
「ヘッジファンドなどに英国政府が負けてたまるか」
ラモント蔵相は、投機筋を撃退する秘策を練ります。
明日は、この対策でヘッジファンドを潰す計画なのです。
そして、ポンド危機のクライマックス、1992年9月16日のブラック・ウェンズデーの朝を迎えます。
ソロスは、勝利を確信していました。
ドラッケンミラーにすべてを託し、勝負が決着する前に、心地よい眠りにつきます。
◆◆ソロスは、子供のとき、「自分は、神だ」と感じたそうです。◆◆
◆◆
明日は、仕事で休みます。後編へ◆◆
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